◇ ◇ ◇


 考えたことがある。
 何度も繰り返し想ったことがあった。
 それはどんな夢だったか、彼女はもう憶えていない。憶えていてはならないと思ったから、彼女は忘れた。
 幼い頃、たしかに在ったと思う。少女時代、光っていたそれを走って追いかけた。忘れてはならないはずだった。道標のはずだった。だが、もうそれは深い海に沈めた。



 朱い世界を見たことがある。光に霞む夕の美しさではない。明けに望める朝焼けの清清しさでもない。彼女の見た世界はすえた退廃の匂いがした。
 朱い世界を見たことがある。血染めの世界を見たことがあった。彼女の隣はいつもそうだった。赤い街。赤い人。赤い。踏み出す足は踝まで濡れている。病的に赤い野苺をぶちまけたようなその絨毯は、足にねっとりと絡み付いた。眩暈を催すその朱さは原色の鮮やかさで視覚を撃った。
 狂気の世界に少女の身体が一つだけ。夜に浮かぶように白く、禍々しい。
 少女の思考を奪った誰かは、残った少女を侵すように記憶を混じらせた。
 ……父の作ったジャムはこんな色をしていただろうか。
 その毒の意識。足を踏み出すびちゃりという音とともに笑い声が聞こえた。それに磨り潰されたのは苺の塊なのか、少女の欠片なのか。勝手に動く体は得体の無い笑みを零し、潰れた苺の塊を口に含む。耳朶を打つのは粘つくような咀嚼音。鼻腔を抜けるのは錆びた命の残り香だ。
 ――――とろり、と。
 飲み込む彼女の身体は震えている。嚥下するほどに怖気が襲った。
 嫌だった。嫌で嫌でたまらない。泣けるのなら泣きたい。喚けるのなら喚きたい。どうにもならない全身は道化のように狂い踊る。けたけたと嗤う神経はこのまま裏返るだろう。

 このままでは発狂する。どうにかなっておかしくなる。
 ……やめて。やめて。

 少女はそれだけを繰り返す。繰り返すほどに擦り切れる。擦り切れるほどに外れていった。
 飲み込むのは気持ちが悪い。舐めるのも食べるのも気持ちが悪い。何もかも気持ちが悪い。もう気持ちが悪くて悪くて、全部飲み干してしまいたい。それほどに気持ちの悪い、身震いするほど甘くてキレイな味がした。
 ――――美味しい、と。
 作り変えられた本能はその喜色に染まっている。喉に絡む粘着質の生臭ささえ愛しい。ジャムに映る月はそんな彼女を深紅に照らす。
 だが、苺のジャムはところどころ黒く変色して固まっていた。やはり少女の作るそれは出来が悪かったのだろう。凝固している部分をびちゃりと踏みつけながら父の品物を思い出す。思い出して、気が付いた。
 目の前には見るからに出来の悪い赤色のジャム。量のみ夥しく、質は求めるべくもない。なにせ素材が素材だ。雑種ばかりを磨り潰しても仕方が無い。
 ……でも父ならば、痛んだ苺でも美味しいジャムを作れたのに。
 ああ、それでも。それでも、気が付いた。少女は思い出して気が付いた。気が付いたのは、自分で作ったジャムを美味しいと思ったのはこれが初めてだったということだった。

 毒の意識が囁くように嗤う。少女には何も出来ない。
 ……やめて。やめて。

 街は暗い。時間はいつのまにかゴムになってしまった。不定期に伸びては縮むそれは赤い色をしている。ジャムと一緒に彼女に絡み付いているそれは、まるで自分の命が歪んで伸びているようだった。意識の片隅でぼうと見つめる少女には、夜しか来ない日がここ数日続いている。
 誰も居なくなった町。死んだ土地に吹く風は悉く腐っている。彼女は血に沈んだ教会で天井を見上げていた。
 赤暗い天蓋と赤黒い内装は肉屋で見た獣の内臓壁に似ている。したたり落ちる水滴は粘性に富み、壁の起伏は襞を作るようだった。見れば床には、ちょうど消化不良の肉がいくつも転がって呻いている。
 ならば此処は臓物だ。内側だ。力が溜まるほどに空気さえ生物めいてくるのだから、ここはまさしく彼女のハラワタなのだろう。
 少女はそれを心地よいと感じている彼女がなにより気持ち悪かった。血溜りに映った彼女の顔は酷く滑稽に歪んでいる。
 少女は彼女なのか。彼女は少女なのか。彼は少女なのか。少女は彼なのか。歪む表情は憂えているのか、嗤っているのか。夜の真中でソレはいつも血を流していた。彼女は身体に血で濡れないところなどなかったし、少女も残った意識から血を流さないことはなかった。

 人でなくなってからは、いつもそうだった。
 ……やめて。やめて。もう、やめて。

 少女には名前があった。好きだった。父が、母が、皆が祝福してくれた名前だった。誇りに思うなどと大それたことは言わないけれど、それでも自慢の名前だった。呼べば綺麗な音のするその名前が大好きだった。だが、それも赤く染まって腐って堕ちた。少女は腐敗の過程を、彼の横に座って見続けることしか出来なかった。
 今、少女はそうやって生きていた。そうやって死んでいた。
 そんな中で白い人に出会ったのは、夜も深い金色の月の頃だった。

 待ち焦がれていたのだと、少女はそう思う。彼女も彼も、少女でさえ待ち焦がれていたのだろう。
 邂逅はただ美しかった。もうそれしか憶えていない。ただ綺麗で、少女は、汚い自分はここで塗り潰されるのだと直感した。最期に、わずかに残った自分の欠片で、世界は硝子のように綺麗なんだと思った。
 ……触れると壊れる。壊れては傷つける。傷つけては繰り返す。過去は全てがそうなった。
 少女にとって、過ぎ去った日々はどんなに綺麗だったことか。壊れていく瞬間、どんなに悔しかったことか。止まらないと知ったとき、どんなに憎かったことか。
 ――――消えかける意識の端で繰り返すほど醜く。澱む意思も果てるなら、傷む硝子も消えて欲しい。
 何もできないのだと知っていた。
 血を吸う自分。血を呑む自分。血を浴びる自分。そんな彼が少女を嗤った。
 それでも少女は足掻いていた。それでも少女は戦っていた。だから、少女は見続けた。
 信じていた神様は無力は罪でないと言っていた。前進しないことが許されないのだと言っていた。その信仰に、消えかける少女は慟哭する。そんなことがあるものか。これほど憎んだことはない。無力でなければ、硝子は壊れなかったのに。
 ……世界はいつも、硝子のように美しかった。
 月が黄金に輝く夜の底。暗い空気を裂いて白い手が胸を貫く。身体は砕けて、視界は赤い。それでも少女は白い人を見続けた。感謝した。わたしのからだを消してくれてありがとう、と。わたしのこころを消してくれてありがとう、と。
 ……わたしを、殺してくれてありがとう。
 人でなくなってから初めて涙を流せた気がした。初めて、嬉しいと思った。
 少女はもう動かなかった。



 考えたことがある。
 何度も繰り返し想ったことがあった。
 それは夢だった。いつかに忘れようと誓った夢だった。いつ忘れてしまったのだろうと。探してみても、彼女には見つけられなかった。見つけているのに、それだけは見つけてはいけないと思っていた。そうやって嘘をついた。



「運が無かったな」
 初めて耳にしたその女の声は、灼け付くほどに冷たかった。それを聞いてから一月、ただ殺されていた。
 泣いた数は憶えていない。叫んだ数も憶えていない。

 祈った数は既に無数に届き、願った数は無限を嘲笑った。
 ……やめて。やめて。

 それでも何もなかった。少女は届かないことを知った。
 時間はまだゴムのようだった。身体を掻き回される痛みがあるときはよく伸びて、死んでいるときは伸びた分だけ、ぶつんと縮んだ。意識はいつも明滅していた。

 女の言うことは悉く正確だった。少女は運が無かった。運が良かったのでも悪かったのでもない。ただ、無かった。選べるほどの未来は存在せず、唯一あった選択肢も正解肢には程遠い。運があるというのは、選択できる機会があるということだ。自己を次なる段に運ぶ道を選ぶ、偶然と必然の重なりによる未来の決定が運である。分かれ道があることそのものが運だった。
 少女には運が無かった。いつからか、何もかもが決定されていた。道は一本しか無かった。
 ――――つまり少女には、些細な意思決定さえ無意味だった。
 泣いた数は憶えていない。そこに意味など無かったから。叫んだ数も憶えていない。そこに意味など無かったから。ただ、殺した数だけは憶えていた。罪の数だけは、彼女に必要だった。縋るものはそれしかなかった。それさえ罪だと知っていた。
 そうして少女は司祭になった。
 そうして少女は自身を呪った。
 罪の意識。贖罪の道行と懺悔の鎖。罰の行使と義務。教義。異端。昏い底。
 少女に混濁する思いは自責か、悔恨か、それとも憎悪か。自己への不安と嘆きの果て、少女の優しさは枯れ、偽りに堕ちた。
 それでも憎しみは燃え盛る。殺されなくなってから、初めは運命を呪った。知ってからは、蛇を呪った。届かないと気が付いてからは、世界を。そして最後には、少女は自らを呪った。そう、呪ったのだ。憎んだ。蔑み、罵倒した。
 ……殺してしまった人たちは、わたしよりももっと、憎かったに違いない。なのに、どうしてわたしは、自分の悲運を嘆いているのか。そんな生きている人みたいな幸せな権利、わたしには、無い……!
 洗礼の間は聖母の前、少女は自らを罵倒し、傷つける。悔恨と憎悪に狂う心は、実体をもって身体を動かす。苛まれる少女は念じるままに、儀礼の剣で足を刺し貫き、かつて血を呑んだ喉を握りつぶした。だが、目の当たりにするのはすぐに直るカラダ。その瞬間、どれだけ呪ったかわからない。
 直面する現実は少女に慟哭を上げさせようとするが、少女は泣くことが許されないと知っていた。
 だから少女は嘘をついた。弱い自分を底に沈めた。壁を造り、蓋をした。
 少女は終に一声も漏らさず、されど立ち上がることも出来ず。最後に残った一粒の涙を、拳とともに握りつぶして腕を折った。
 ――――運が無かったな。
 告げられたのはただ事実だった。

 祈りは届かないと知った。願いは叶わないと知った。そして、もう涙を流すことは許されない。少女に殺された人々はそれさえできないのだから。少女にとって司祭になるとはそういうことだった。
 それでも少女は、
「……死に、たい」
 と。それだけを、願った。



 考えたことがある。
 何度も繰り返し想ったことがあった。
 それは夢だった。呼び起こしてはいけない。願ってはいけない。そんな、遠く綺麗な夢だった。
 少女から少し大人になった彼女は、今もその夢を封殺する。彼らと出会ってからは特にそうしてきた。温かすぎた。何か錯覚してしまうほど、思い描いた楽園に似ていた。
 だから、浮き上がってくるたびに全力で否定した。全霊をもって嘘を塗り固めた。

 本当を、沈めた。
 ……やめて。やめて。そんなこと、許されない。

 彼女は罪深い。彼女は罪深く、贖いの火は消えることが無い。苛むのは怨嗟の幻聴だ。歩く道は遥かに続き、果ては見えることも無い。それでも彼女は何かを求めて歩き続けた。能面のような殺した顔で、世界の夜を歩き続けた。
 彼女は、いつか、許されたかったのかもしれない。

 世界はいつも、硝子のように美しかった。


 ◇ ◇ ◇


 星が出ていた。学校からの帰りにシエルが思ったとおり、良く晴れた夜空だった。
 降るような星屑の空。三咲はさほど高所にあるわけではない。だが今日の夜空は思いがけず近い。濃密な青を黒で透かしたような空色は、白い星を千々に灯らせ輝いて見えた。
 降るような星。降るような空。今夜は夜が降っている。
 静寂とともに星明り。月は天頂から町を見つめる。普く星は光を併せ、囁くように謳っていた。
 きっとそれは月の姫に捧げられるのだろう。
 夜が手に届くほど近い。空気は澄み切っている。

 三咲はさほど大きくなく、小さくもない町である。都市開発は少しずつ進んでいるが空気もまだ綺麗だった。夜にもなれば昼間の排気も鳴りを潜め、静かで澄んだ景色に変わる。良く晴れたなら、穢れた空気は空へと還るだろう。綺麗な夜はそこに在った。
 シエルは今夜も道を歩いていた。巡回である。
 先秋に起こった祖の消滅。特に蛇に関わる方は汚染が激しかった。八年前から数えるなら、人は数百という数で犠牲になっている。蛇の残党はまだ此処に存在するだろう。本来の町に戻すには時間を掛け、徹底した浄化が必要である。
 シエルはそれを受け持っていた。また併せて、真祖アルクェイド・ブリュンスタッドの監視も行っている。無限の蛇を断つなら真の数。真の月を穿つなら空の弓。なにも今に始まったことではない。大昔から御伽噺で語られている。
 彼女は毎日毎夜、任務についていた。例えば雨の酷い凍える日。例えば霧の出る分厚い夜。風の狂う日、星の無い日もあった。それは殉教者の誠実さに似ている。特に、今日のような透けるほど晴れた夜は頻繁に戦った。月が常より近く見える日は、きっと月も常より近くで見ているのだろう。狂気を振りまくその光は、死んだ者たちを輝かせる。
 しかし、今日はどうやら何も無いようだった。彼女は今、一度通った場所を再確認しながら歩いている。
 密室さながらの裏の路地は澱んではいるが何も居ない。混沌の没した公園も噴水に月が映るだけで何も無かった。学校は毎日通いながら監視しているので異常が無いことは判っている。もう世に迷っている吸血鬼の人形はないのかもしれない。
 そこまで考えて、ふと溜め息がでた。それに気付くシエルは苦笑を一つ。どうも今日は気分が沈んでいる。溜め息が多い。
 町に異常が無いことに残念さをおぼえるなんて、いったいどういうことだろうか、と。彼女は蔑むように自分を笑った。それも、嘘なのかもしれない。笑顔はどこか歪だった。

 一つの任務の終了。これは喜ばしいことだ。人を守ることができたのかもしれないから。人を殺してきた彼女は、そこに安堵と嫌悪を覚える。
「……いまさら何を」
 安堵などしてはいけない。たしかにあるその感情を自分に対する絶対嫌悪で塗り潰す。殺してきた事実が消えることは無い。
 それは罪の烙印として永遠に彼女に刻まれる。虜囚の火だ。シエルは尽きることの無い罪に囚われている。が、それも彼女の望んだことだった。

 蛇は消滅した。彼女は死にたいと願っていた。彼女には生きても良い権利など無かった。なのに、彼女はまだ生きていた。
 贖罪の歩みが続いているから。死んで償えるなど思いあがりもいいところだ。ならば生きていつか擦り切れて無くなるまで償い続ければいい。
 そう考えたこともあった。だが、別の彼女が訴える。正しく己を知っている本当の彼女が訴える。
 ――――それらは全て、詭弁だ。
 彼女は弱い人だった。彼女は強くなければならない人だった。そうでなければ壊れてしまうほど、弱い人だった。
 贖罪の歩みが続いているから。――建前だろう。
 死んで償えるなど思いあがりもいいところだ。――生きていても償えないのに。
 ならば生きていつか擦り切れて無くなるまで償い続ければいい。――正しく生きてもいないのに、そんなことできると思うほうが傲慢だ。
 彼女は弱い。嘘を積み重ねてきた弱い人だ。必死に、狂うほどに自分を責め、戦い続けてきた強くて弱い人だった。
 ――――人を守ったから人を殺したことを償える。そんなことはありえない。
 怨嗟の声は木霊する。反響する意思の呪いは彼女の中の嘘に弾けて深いところへ堕ちていく。そうやって偽り続けるほど、彼女の罪は増えていった。嘘が、また増えた。
 今も彼女は問い掛けている。何度も何度も、干からびるほどに繰り返している。何故、生きているのか。
 ……どうして、わたしは。
 弱かったのだろう。どうしても偽れないほど、彼女は弱かったのだ。嘘をいくら重ねても棄てきれない想いがあったのだ。夢が、あったのだ。
 今の彼女から零れるものは何も無い。身体は何度も死んだ。心はあのとき殺した。夢は沈めて蓋をした。涙は最後の雫を握りつぶした。だから、彼女から零れるものは何も無い。いや、或いは。罪人から流れて落ちる穢れた血液と、重ねるほどに降り積もる眩いばかりの嘘だけはあるのだろう。
 ――――とうに笑顔は枯れ、涙は死んだ。それでも心は血を流すのか。
 あの頃から変わらない。彼女はいつも血を流している。人でなくなってからはいつもそうだった。
 澄み切った夜は、歩く彼女だけが歪だった。

 今、夜は闇ではない。見るものを圧倒するほどの星屑が瞬き、黄金の月を迎えている。世界は今日、あの日のように美しい。硝子の夜空の下、それがあまりに過去の傷痕に似ていたからか。シエルは思い、繰り返した。
 蛇は消滅した。望みは叶った。では、何故。
 それだけが熱病のように繰り返す。止めを刺したその日の夜、帰りついた白いアパートは断罪の告発者に見えた。
 ……わかっていた。その先に何も無いのはわかっていた。これだけを望んだのだから、先なんてあるはずが無い。そんなこと、誰に言われなくたってわかっていた……!
 では、何故、生きている。繰り返すのはその言葉。彼女の中で糾弾を続けるそれは永遠を模倣する。父が泣いて死ねと言った。母が叫んで死ねといった。親しかった友人が、近所の教会の神父が、子供が、老婆が、皆一様に血の涙を流しながら死ねと言った。もう死んでくれ、頼むから死んでくれ。何故生きているんだ、お願いだ、死んでくれ。
 彼女の顔は蒼白だった。恐怖と悔恨でもう色も見えない。あのとき望んだことは決して偽りではなかった。その望みが叶ったのだ。しかし。
 何も無い。続かない。そして今、死ぬことも出来ない。
 身体は凍ったように硬直している。心はひたすらに震え真っ白になった。それでも意識はただ責める。何故生きているのか、何故死なないのか。いまさら死ぬことが怖いのか。背負った血塗れの十字架がひたすらに彼女を責め立てる。
 シエルは泣いてしまいたかった。叫んでしまいたかった。どうしてよいのかわからないから。泣いて、叫んで、喚き散らして狂ってしまいたかった。だが、彼女はそれが許されないことを知っていた。できないのだ、彼女には。本当の彼女は優しいから。本当の彼女は強いから。そんなことをするのは、背負う全てに対して裏切る行為になるとわかっているから。
 だから、その日。シエルは泣かなかった。きっと心は哭いていただろう。だが決して涙を流さなかった。いつものように武装の確認と修繕をし、衣服の穢れを落とし、シャワーを浴びてからベッドに入った。
 ただ淡々と。ただ無機質に。機械の動作は狂わないと証明しているようだった。
 無表情を繕った顔にはところどころ罅が入り、口から一滴血が流れていた。苛む全てに理由を告げず、彼女はまた死に損なった。
 あたたかい夢が、頭をかすめた。

 そして、今も彼女は歩いていた。繰り返し思うその意識は強い。されど身体は歩みを止めない。これこそもう既に染み付いた動作だった。染み付いただけ傷を増やした。
 巡る夜は傷を増やす。廻る嘘は傷を抉った。しかし、そこには彼女が求めた道がある。罪に濡れてぬかるんだ贖いの道行きだ。許されることはないだろう。意味などもう無いかもしれない。
 それでも彼女は歩き続ける。歩くたび、嘘を重ねて傷を増やした。始まりはもう憶えていない。行き先ももう忘れてしまった。
 死徒を狩り、嘘をつくたび進む人。その道は彼女の望むように続くだろう。きっと怯えるように心が叫ぶのだ。まだ足りない、これでは足りない、こんなもので許されるはずが無い。
 贖いの炎は消えない。罪人を焼くその火焔は彼女が望むほどに猛る。殺された人の形をとって彼女を責める。
 ならばこれは出来損ないの永遠だ。
 夢を殺して贖いに生きる彼女は、無意識で自分を責め続ける。それが灼熱を帯びるなら、彼女は償うためにまた虚言の罪を犯すだろう。たとえそれがどんなものであっても偽ったことに罪がある。そしてそれが新たな炎に生まれ変わるのだ。彼女が歩き続ける限り、此処には無限の罪が存在する。
 今日学校で笑いあった。昨日中庭でふざけあった。一週間前、少しケンカして仲直りした。
 嘘だった。芝居だった。彼女がそう思うなら、それは本当だろうと嘘になる。彼らを偽ったか、それとも己を偽ったか。その差異が見えるだけの幸福の演劇だ。
 そんな道をシエルは歩く。その道は罪に濡れているのか、それとも嘘に濡れているのか。もう彼女自身わからない。
 嘘つきは落ちると誰かが言った。それを聞いた彼女は嬉しかったに違いない。嘘をつくなら落ちられる。こんな血塗れの自分でもまだ落ちられる場所がある。罰を与えてくれる場所がある、と。
 それは、なんて閉じているのだろう。本当の彼女はもう深い深い海の底だ。どれだけ外からこじ開けようとしても彼女はそれを拒んでいる。暖かさを拒絶した。喜びを切り捨てた。楽しさを嘘と哂った。自ら望んで閉塞していく彼女は、もしかしたら、もう既に狂っているのかもしれない。
 だから彼女は嘘をつくのか。許されないと知って夢を殺し、求めるものを罰に変えたのか。
 彼女はもう、嘘の始めを憶えていない。因は彼女の道の果て、応えとなって返るだろう。それは報いという名の罰である。しかしそれも、彼女は望むだろうか。

 今夜、星を見上げながらシエルは思う。
 死にたいと。何度繰り返したか判らない。
 死んでしまわなければならなかったと。これも何度繰り返したか判らなかった。
 月の姫に殺されたとき、彼女は死に損なった。蛇に止めを刺したとき、彼女はまた死に損なった。そして、今はきっと、彼女は生き損なっている。
 ――――もう信じられるものが彼女の中に見つからない。生きてなど、いない。
 夢はあった。だが嘘もあった。どこまでが求めたあたたかさで、どこまでが努めた芝居なのかわからない。夢が彼女の嘘なのか。嘘が彼女の夢なのか。報われない彼女はどちらも信じられない。どちらであっても救われない。許されない。強くて弱い人だった。
 彼女に判ることは一つだけ。どちらであってもそれは幸福という名の蜃気楼。追いかければ遠ざかる、砂漠の水だ。
 ――――なんて閉じているのだろう。彼女はそれを永遠に追いかけ続けるのか。
 ふらふらと。偽りの夢の砂の中。きっとその砂は硝子で出来ている。生きているか死んでいるかわからない彼女は、これからも生き損なっていくのだろう。



 夜がもうすぐ明ける頃。シエルは能面のような白い顔のまま、アパートへの帰り道を歩いていた。朝日が朱く、町を照らしている。
 ――――じゃあね、先輩。
 朱い世界にいつもの言葉。不意に思い出したそれは、別れを意味していた。
「はい、さようなら、遠野くん」
 いつもの返答。何故か口をついたそれは、やはり別れを意味していた。しかし今もきっと、送ったつもりでまた返ることを夢見ている少女がいる。
 道を歩く。
 彼女は今日も独り、道を歩いている。
 世界は、硝子のように美しかった。





 <了>





 あとがき:
 アルクェイド Good End 後のシエルです。
 月茶 End 後でないのでご注意ください。時期は「庭掃除」と同じ頃です。
 お読みいただき、ありがとうございました。
 「ただ清らかな」や「庭掃除」よりも平坦な雰囲気のものを目指しましたがどうだったでしょうか。



 岩蛍

 2004/08/26 (初稿)

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