夕刻。西からは朱い光。柔らかさと狂おしさを混ぜ込んだ旅愁の火は仄かに世界を照らしている。彼女は震えるように細く息をついた。
 朱い光は優しい。染みるように侵す優しさは自然にしか為しえない、星の息吹に見えた。
 胎動する春の声。朱い世界はまるで硝子のように美しい。
 学校からの帰り道。まだ正門をくぐってもいないいつもの歩。学友と別れたシエルは独り、朱い土に立っている。深く暗い青の髪も今は昏くて紅かった。伸びる影は同じく紅い。
 ――――じゃあね、先輩。
 言葉はいつも通りだった。以前から何度も自分に向けられた暖かい彩だ。ほんの数分前に向かってきたその単語は、今日も彼女を慕って飛び込んでいった。言葉は別れを意味している。
 彼女は思う。純粋に別れを告げるその言葉に、何度助けられただろう。何度、振り向いただろう。数えられたのは、今は過ぎた冬の日まで。三十を越えてからは、ただ待ち侘びた。
 もう一度、落とす息を吐く。確かめるためのその呼吸は、しかし彼女から力を奪う。
 いつものことだ。もう此処には居られないのに、離れたがらない自分が喘ぐ。それは彼女の心の隅に溜まって澱んだ望みの形だった。溜め息とともに吐き出したつもりで、いつもそれに足を取られる。
 ――――はい、さようなら、遠野くん。
 今日も同じ言葉を返した。送ったつもりで、また返ることを夢見ている自分がいる。何度返したかわからない。それは、笑顔も声も変わり映えの無い嘘だった。
 嘘を付いた始め。遠い遠い幼い頃。始まりの日はいつだっただろうか。考え、もう憶えていない自分に気付く。きっとそれはばれて父母が叱ってくれただろうに、なんて薄情な人間だろうかと嘲った。それもきっと嘘だと気が付いてまた沈む。心が黙り込む。
 始まりは憶えていない。少女のころについた嘘もあった。処女のころについた嘘もあった。昨日ついた嘘、一昨日ついた嘘、一年前についた嘘もあった。始まりなんて、憶えていられるわけがない。そう思って自分を騙す。
 また嘘が増えた。
 去年の秋はたしかに彼に向けた嘘だった。今はどうだろう。やはり彼に向けた嘘は続いているような気がした。もう去年のあの頃には戻れない。彼女には、それが嬉しく、辛かった。
 彼女を絡め取るのは本当の心。彼女を立ち止まらせるのは本当の自分。だが、彼女の笑顔に嘘を付かせるのも本当の彼女だった。
 偽りだらけの道。独りだけの道。
 今日も彼女は歩く。



 帰り道



 三月。年度納めのこの時期は、学生達にとって旅立ちの時期でもある。進級や進学、転校という言葉のそれはどれもが卒業を意味していた。今までの自分、今までの場所にありがとう。自分を取り巻いていた全ての人にありがとう。数多の感謝と解放の喜び。あのうきうきとした始まりの雰囲気と、少し寂しくて悲しい別離の気配。三月とは、それらがない交ぜになっては人を感動させる季節である。
 柔らかくなりつつある街の空気は期待と不安で膨らんでいる。新しい始まりを予感してどこか焦がれているように見えた。吹く風は待ちきれないとばかりに微熱を持った。
 思えば、校舎の渡り廊下が崩落してからはや五ヶ月。冬の間滞っていた改修工事も二月の中ごろに再開された。直される廊下はこれを機会にテラスを設けるらしく、在校の生徒達はいまかいまかと完成を楽しみにしていた。シエルはそんな空気の中、志貴が一人苦笑いをしていたのを知っていた。
 今も振り返ればその渡り廊下が見えるだろう。完成間近のその橋は、真新しい硝子が張られていた。
 シエルはそんな校舎を残して正門をくぐった。

 彼女が学校を出てしばらく。いつもは灰色の道路も夕日に照らされ薄く赤い。昼間たくさんの色で賑わう街も今はたった二色に純化されている。目にうつる世界は赤い。灰色のビルは赤く、水色の空は赤く。茶色い瓦屋根は赤くて、歩く彼女も赤かった。もしも小高い丘から眺めたら、さぞ綺麗なことだろう。
 シエルは独り歩く道の途で、街を想う。
 雑多で統一性のない建物群は、だからこそ人の営みを感じられる。せわしい自動車の動きは仕事帰りのサラリーマンだろう。きっとそこには疲れて、しかし幸せそうな顔がある。
 公園には遊ぶ子供達と母親がいるかもしれない。精一杯自分の世界を表現している彼らは、見守る母の温もりに安らかさを感じていることだろう。
 そして、その幸せな街の中には彼がいて、彼の友人がいて、彼女がいた。学校での休み時間、取り留めの無い話題で歓談し、食堂では三人で座る。たまに中庭に出ては日溜りに遊び、放課後茶道室で語り合った。最近の自分達のこと、新聞やニュースのこと、歌手のこと、テレビ番組のこと、服装のこと。何が好きか、何が嫌いか、何が面白いか、何が楽しいか。有彦が豪快に笑い、志貴はそれを小突く。それを有彦がシエルに訴えては、三人で笑う。シエルが説教を始めては、有彦が囃し立て、それを志貴が興味深そうに聞いては、鋭い質問を浴びせた。
 朝、登校し、午前の授業を受けて、昼に志貴が茶道室に来る。志貴はたまに彼女の好物を持ってくるので、シエルも自分のお弁当をおすそわけしていた。午後からは授業を受け、この頃に登校してくる有彦を休み時間に二人でからかいながら、また三人で笑った。ゆったりと穏やかな毎日だ。
 そこには、彼女の求めた夢があった。綺麗で、穏やかで、暖かい夢があった。朝に起き、昼に学校、夕には下校してたまに街へ繰り出す。普通の日常だ。何も特別な出来事もなく、特別に嬉しいこともない。それはなんて普通で、ありふれていて、大切なことなのだろう。そんな毎日が穏やかに流れるならば。
 ならば、きっと。此処には喜びが溢れているに違いない。
 思い描いた俯瞰の景色は幸福の一色に染められていた。平穏で、ただゆっくりと過ぎていく毎日は、されど春の陽気を孕み活気を人に与えていた。街や学校には来る新年度への期待が溢れ、彼女達三人はその中を我先にと楽しんでいた。これ以上ないほどに平和で未来への期待に満ちた最高の、――――幻視だった。
 彼女には、それが幻だとわかっていた。嘘の世界だと知っている。
 事実これらは彼女が毎日繰り返していることだ。ありきたりの日常。普段の毎日。ともすれば退屈さが頭を擡げるそんな日々。そこには本当の彼女が居ない。そこに実像が無いことを彼女は知っていた。芝居だった。彼女はそんな人間だった。彼女はそんなことが、許されない人間だった。
 祈りが届かないことは知っている。
 願いは叶えられないから綺麗なのだと知っていた。
 それらは全て、自分の嘘なのだと判っていた。
 これまでの半年、暖かい場所に居すぎたからだろう。何か錯覚している。それは許されないことだ。考えてはいけない。
 彼女は廻る思考を頭を振って追い出した。そうやってからもう一度町並みに眼を移す。きちりとした区画整備は夕日に染まっても無機質なままで、道路標識は壊れた機械のように指示を出し続けている。続く白線はところどころ擦り切れ、街路樹は半分が枯れていた。すれ違う人は無表情に流れてどこかに消え、学校帰りの生徒達は軽薄そうに言葉を並べた。
 歩く彼女はそんな街を眺める。
 ……出来の悪いミニチュア。
 無関心と無表情で出来た粘土細工の壊れ物。街はそんなものに見えた。彼女は街にそんなものを見て、自分を諌める。
 伸びる影はひたすらに長い。子供の頃、それが化け物に見えたものだが、本当の化け物を知った今では黒い付き人にしか見えなかった。しかし今は、黒いはずのその色も昏い赤に見えるのだから、この街は真っ赤なのだろう。彼女はそんな中を自宅に向けて歩いている。
 アルクェイドが出歩くのもこの時間からだったはず、と考え、彼女はまた溜め息が出そうになった。

 吸血鬼の住まう街。こともあろうかそれは綺麗な綺麗なお姫様だ。
 白い彼女はこの時間帯が良く似合う。何せ血染めの世界だ。シエルは皮肉っぽくそう思ったものだが、頭の中で描いてみると実に美しい絵画になった。
 朱い世界に白い君。小高い丘、下にある街の灯。無垢なその人は夕日に遮られる月を見上げる。太陽の反対側にあるその銀の円は歪に欠けながらそこに在った。まるで、貴婦人の瞳のように目蓋を少し下ろしている。銀の眼は姫を見つめて離さない。
 月の周りは紫だった。きっと夜を従者にしているからだろう。付き従うものたちは静謐だ。
 彼女の衣服は普段となんら変わらない白いセーターに紺のスカート。何も着飾るものはない。ここにドレスはないし、冠もない。だが、それらは必要なかった。だってこんなにも彼女は美しい。
 見上げるその横顔には何も浮かんでいない。そして傍には誰もいない。彼女は純粋だ。ならば微笑んでいる方がおかしく、隣に誰か居る方が歪んでいる。高貴なのではない。彼女は自然なのだろう。
 ――――それはなんて、あの男めいた美観だろう。
 は、と気が付いてシエルはその思考を止めた。右手は血を流すほど強く握り締め、身体は戦闘を予感し猛っている。ぎしりとなった耳鳴りは幻聴の類ではないだろう。骨格が歪むほどの力が全身を巡っている。鏡を覗けば悪魔の形相をした自分が見つめ返すに違いない。
 事実、左手に持つ黒鍵は既に刃が成っていた。何か切っ掛けがあれば、今のシエルは目標に向けて即座に弾け飛ぶ。もしそうなれば、止まることなどきっと無い。
 描いたアルクェイドは、シエルが幾度となく殺し合ってきた彼女だった。そこにある男の記憶が混じっている。それは血を吐くほどの嫌悪と憎悪になって、否応なく彼女の心を掻き乱す。凝視する悪夢は彼女が淵を覗いたからだ。長く深淵を臨むと、深淵も心の奥底を覗き込んでくる。
 それに身体が反応したのだろう。条件反射もここまでくればある種呪いだ。戒めなければとシエルは思う。
 乱れた呼吸を即座に整え、自己に軽い暗示を掛ける。即効性の鎮痛剤とほぼ同じ効果を己の精神に与えた。
 空廻る憎しみを黒鍵の刃とともに消し去り、そのまま思考を一度止める。そして、三秒ほど止めていた歩みをゆっくりとしたものに定義し直して始動させ、機械のように再起動した。
 それでも、描いたアルクェイド・ブリュンスタッドの姿が脳裏で浮いていた。もう意味を失くしたそれは、忘れられた宝石のように色褪せていくことだろう。いつか硝子玉になって、路傍の石に変わる。もともとただの気紛れだ。残るほうがどうかしている。
 また溜め息が出た。今ので三回目。疲れているのかもしれない。
 一度落ち着いたシエルは冷たい頭でその絵を眺める。
 写るそれは完璧だ。これ以上無いほど精緻で正確で美しい。だが、彼女には何か違和感があった。
 何が原因だろう。夕焼けに真祖の姫が居て、ただそれだけだ。絵としては出来上がっているし、意味を失くしたものに違和感を感じてもしょうがない。
 シエルはそうやって誤魔化そうとしたが、それでも何か気になった。治りかけの傷口に似た焦れを感じるその幻は、どうにも気分が良くない。彼女は数瞬迷って、やはり見直すことにした。
 日のある西の空は朱く、月のある東の空は紫に染まっている。強い星はもう瞬き始め、山の端は暗く霞みつつあった。街は変わらず灯を湛えていたし、彼女は相変わらず無表情に月を見ているだけだ。そこに足りないものなんて、
「……あった」
 呆とした呟きが、彼女の口から漏れる。
 彼女はたしかに無表情に月を見上げている。そこには何も浮かんでいないし、これから来る夜の時代は真祖の姫を歓迎するだろう。だが、どうにも。シエルは、今のアルクェイドを表すには一つ欠けている、と思った。
 紅に灯る瞳で。白磁の能面で。金糸の輝きを従えて。銀色の月を見上げる彼女は何も持っていない。漠然と、シエルは直感する。
 ……アルクェイド。貴女、寂しいのですね。
 完成している絵は自然だ。そこには完全故の孤高さがあった。だからだろうか。シエルには、それがどうしても今のアルクェイドには見えなかった。
 孤高は孤独の別名である。隣に誰か居る方が歪んでいたのは以前までだ。だから、もしそれがこの絵画の汚点になろうとも、シエルはもう少しだけ描き足すだろう。
 ……しょうがないですね、貴女は。
 男を一人、眼鏡を一つ、笑顔を二つ。
 どれだけ絵の価値が落ちようと、シエルはこちらのほうが自然だと思えた。なにしろ最近ではこんな彼女しか見ていない。まるで初めからそうだったかのように、出来上がった幸せの絵画はすんなりと脳裏の額に収まった。それくらいには彼女もアルクェイドを知っていた。それくらい、シエルは彼女を理解していた。
 それとともに、シエルは嬉しいような悔しいような、怒りながら笑いそうな気分になった。仄かに笑顔が浮かんでいる。
 最近、彼女はやっとそう思えるようになった。
 そう思っているうちに、アパートが見えてきた。

 学校からの道、そのゴール地点。白い建物はやはり朱い。見え始めたばかりだというのに、シエルはほっとしていた。彼女でも気分が乗らないときはある。特に今日は、幾分らしくないことを考えていたのでなおさらだった。
 ……武装の調整でもしようか。それとも早めに巡回を始めようか。好きなものを食べるのも良い。とりあえず何かして気を紛らわせなければ。
 朱い影絵の街。もうすぐでアパートだった。少し気を抜いて見上げた空には風が緩やかに巻いていた。もうじき星も見えるだろう。よく晴れた空は茜を流して宵を迎える。満天の星を見るのも良いかもしれない。
 歩く速さが少しだけ緩む。張り詰めていた身体から、力が抜けたからだろう。自然に、穏やかに。シエルは目の前の白いアパートを見る。
 ここは、彼女にとって安心できる場所に変わっていた。それはいつからだっただろうか。それを知っているのはシエル自身だが、彼女はそれに気が付いていない。気が付いても、彼女はそれを嘘だと思うだろう。偽りに塗れた己を知っている彼女は、信じるべきものを持っていない。できないし、許されない。
 血を吸う鬼の棲まう街。
 吸わない姫の住まう街。
 咲き誇る幸せの幻の中で、シエルはまだ戦っている。



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