「閃槍・砕けぬ心(クリムゾンエッジ)」

 ◇ ◇ ◇

 思えばどれだけの間、その槍は彼女の隣に居たのだろう。
 まだ少女のあどけなさが残っていた頃の最初の冒険。仲間に出会いパーティを組んで挑んだ山岳の遺跡。信頼していた者が裏切り、仲間が殺された忌むべき過去。そして、力を手に入れるまでの道程からその結末まで。その槍は常に彼女の隣にあった。笑い、泣き、怒り、そして悲しみに堕ちても決して揺るがなかった彼女の意志、その全てを見届けたこの槍が、主とともにその生を終えたのは云わば必然だったのかもしれない。

 昔、彼女はよく傷ついた。しかし、その数だけ彼女は立ち上がった。何度でも立ち上がった。魔物に叩き伏せられようと、不死者に斬り捨てられようと、信じていた仲間に裏切られてさえ立ち上がった。そこにどれだけの痛みがあったのか。そこにどれだけの苦しみがあったのか。そして、そこにどれだけの強さがあったのか。
 強くなければ生き残れない世界に生きた、冒険者としてのエイミという女戦士。彼女が欲しかったのは決して砕けぬ意志だった。
 ――あたしは、死ねないんだ……。
 その言葉を、槍はどれだけ聞いただろう。
 死にたくない、諦めたくない、後悔したくない、誰にも何にも決して絶対に、負けは、しない――――。
 旅の始めには毎日のように、冒険者の生き方知るうちに少なくなったが、それでも危機に陥る度に聞いた。狂うほどに真摯なその言葉は、もう既に鋼に染み込み、芯を抜け、血のように隅々まで行き渡っている。紅く煌くその想いの強さを、槍は知っていた。
 始めのうちはまだよかった。槍自身の性能は駆け出しであった彼女の技量にとってちょうど良く、彼女もそれをして己を磨いていった。だが、だんだんと彼女が成長し時が経つにつれ、その槍では応えられなくなることが多くなっていく。死ぬことはできないと。負けるわけにはいかないと。命を削り、魂を捧げ、己の未来さえその全てを掛けて生き抜こうとするその誇り高い彼女の生き様に。その烈火を思わせる苛烈な意志に。彼女は自身をより強く鍛え上げ、そして槍はいつまでもそのままだった。――だから、どうしても。常に進んでいく彼女に、槍はいつしか応えられなくなっていた。
 主は強い。しかし槍は応えられない。その運動に、その刺突の冴えに、電光を思わせる素早さに、何もかもについていけない。もし彼女に無双の槍が与えられたなら、その一撃は神をも貫くことだろう。なのに、何故、と。槍は己の弱さに刃金を震わせる。何故、応えられないのか、と。
 それでも彼女はそんな槍に語りかけるのだ。
「お前が居てくれたから、今度も切り抜けられたよ。ありがとうな」
 青空を思わせる笑顔で掛けられるその言葉を聞くたびに、槍はただ震えていた。鋼の身だ。人の思いなど解せるはずもない。しかし、槍はいつしか震えることを覚えていた。人であったなら、己の不甲斐無さに憤怒の涙を流していただろう。
 その槍は元々彼女に合うようには作られていない。それどころか、軍事国家の武器庫にでもいけばいくらでもある安価な大量生産品だ。だから彼女についていけないのも当然である。だが、それでもその槍は願ったのだろう。彼女に応えたい、と。人ではない、冷たい鋼鉄の塊に過ぎないその身で、ただ願ったのだ。

 槍は、彼女の全てを見てきた槍だった。その底抜けな明るさを、情の厚さを、厳しさを、優しさを、そして眩いまでの意志の力を。その全てを隣で見てきた槍である。血臭が漂い死神が隣で嗤う生死の地平を、彼女とともに身を削りながら駆け抜けた槍だった。
 だが、そうやって常に隣に居たその槍も、彼女の盾となり、大魔術から彼女の身を守ったときに折れてしまった。
 しかたがなかった。それも、しかたがなかったのだ。今までの険しい道行で槍は彼女の技に応えられず、それでも己の鋼を痛めながらただ真摯に彼女の信頼に応えていた。武器で在れ、槍で在れ、それができぬならばせめて盾で在れ。自ら動けぬ鋼の身で、槍はひたすらそうやって戦ってきた。そして、このときに、その全ての力を使い果たして擦り切れた槍は折れたのだった。
 それで槍は満足だった。いつしか彼女の冴えについていけなくなった役立たずの悪しきこの身。だが、やっと主の役に立つことが出来た。やっと、自分の役目を果たすことができた。やっと、彼女の身を守ることができた、と。槍はそう信じて折れたのだ。
 しかし。
 ――――あたしは、死ねないんだ……。
 最後に槍が聞いたのは、聞き慣れたそんな声だった。
 見誤った。思い違えた。何も終わってなどいなかった。槍にそんなことを思えるだけの想念が込められていたかどうかはわからない。人に擬態できるほどその想いが強いかどうかもわからない。だが、その瞬間、槍は哭いた。哭いたのだ。折れたその身を震わせて、己に染み込んだ主の紅い想いを支えに、ひたすらに吼えたのだ。リィンと鳴るその叫びは、空を震わせ何故だと哭いていた。何故自分はこんなにも役に立たないのか。何故こんなにも世界は彼女に辛く当たるのか。何故、こんなにも運命は我らを嘲笑うのか――――!
 何故、何故、と。折れた身をさらに壊れるほどに震わせてリンと哭いていた。

 そして、そのまま槍は砕けた。残ったものは空を震わせた慟哭の残響と、涙のような血の跡が刻まれた刃の一欠けと。彼女がいつも握っていた柄の部分だった。

 その後彼女はガノッサの手により囚われ、拷問の果てに殺される。崩れた槍は彼女が死んだ瞬間も荒野に置かれたままだった。



 一人の女戦士の想いは最後のときに己の半分を失い、意味を成せないまま、死んだ。意志を貫くその身体も、想いを込めたその槍も死んでしまったのだ。どちらも彼女であり互いに半身同士であるのに、どちらも死んでしまったのなら、たしかにエイミという名の冒険者は死んでしまったのだろう。後に残せたものは何も無い。全てを持ったまま、彼女は逝ってしまったのだから。
 だが、彼女の魂は、生きた。世界の、いや神々の代理人である戦乙女の選定を受け、その願いを叶えることを条件に死後の自分を引き渡す。彼女は英霊として、戦い続ける道を選択した。
 槍はきっと知っていただろう。もし、彼女が戦乙女に選択肢を突きつけられたなら、迷うことなく戦う道を選ぶことを。その槍は誇れるほどに彼女の半身だった。もうその槍は、彼女の一部と言って良い。

 ……わかっている。わかっていた。そうだろうとも。私の主である彼女が、その意志を曲げるはずがない。だから今度こそ、私のような役立たずではなく、勇者にふさわしい槍を手にして欲しい。彼女の道行きに、幸あれ……。

 だから、そんな彼女が英霊となるのならば、なくてはならないものが一つだけあるのだ。全てを持って逝ったはずの彼女がどうしても最後の瞬間に手にしていなかった、彼女の最も近い真なる部分が足りないのだ。不死と神越えの夢に狂う老魔術師に破れ、鎖に吊るされながら、暗い部屋で幾度それを想ったか判らない。ちくしょう、と呟きながら、心の中で無理矢理手を伸ばして欲したもの。あれが、あれば。あれさえあれば。竜紅玉のような使えない暴力じゃだめなんだ。あたしの、いつもあたしの腕にあった、あれが、あれば――――!
 ……ちくしょう――――。
 どれだけ叫んでも覆らなかった現実。そんな奈落のような暗闇の中で、彼女が一縷に縋ったのは折れ、砕けてしまった半身だった。
 だから足りない。どうしても足りない。半分が、半身が、全てとも言うべき彼女の槍が、英霊となった彼女にとって決定的に足りないのだ。半身が落ちたまま英霊になど成れはしない。どれだけの力があっても不完全では意味を成さない。世界という名の全能は、決してその歪みを許しはしない。
 だが、エイミは英霊となった。

「――――今此処在る、死の先を往く者よ」

 ならば。
 その主の魂が英霊と成るならば。
 ――――何故、その半身たる槍が蘇らないのか。
 あり得ない。そんなことは断じてあってはならない。全てを見届けたのいうのなら、この槍は彼女そのものだ。半身とも言うべきその槍が、主とともにその道を往かないことなどあり得ない。何かが歪んでいるというのなら、今このとき、半身である槍が荒野に打ち捨てられていることこそ間違いだ。
 その矛盾。許すわけにはいかない。

「全てを見届けたというのなら、槍よ。お前はこれからも彼女の全てを見届けなければならない。その覚悟が、あるか」

 槍に差し伸べられた手は光の形をしていた。だが、その先に待つのは地獄を形容する戦場だ。ならばその腕は死神の鎌と何処が違う。もしもその腕を取り、先へと踏み込んだなら、折れて砕けた槍では一瞬も持たずに千切れ飛ぶだろう。
 しかし、それでも。
 その往く先に彼女が居るというのなら。

――この身は、彼女に捧げた。
 彼女が私を欲するなら、私は何度でも立ち上がろう。
 彼女が勝利を求めるなら、私は何度でも貫こう。
 そして彼女が私をもう要らぬというのなら、喜んでこの身を裂き砕こう。

 この槍が未来永劫地獄に落ちることを、躊躇うはずがない。
 槍のその意志は、たしかに彼女の強さの具現であった。諦めず、朽ちず、その身が砕けたとしても決して魂まで砕けることはなかったその奇蹟。裏切られ、復讐に身を焦がし、それでもなお仲間を想ったエイミの強さ。何度でも立ち上がる、不朽の意志がここにあった。彼女が正しく継承されるなら、常に隣にあったこの槍以外にはあり得ない。
 槍に宿る想念は、降り立った光に支えられ、主が英霊になることによって形を結んだ。彼女を見守り続けたその高潔な魂は、もう二度と砕けることは無い。しかし、槍にはどうしても問わなければならないことがあった。
「一つ、問いたい。この身は勇者の槍に値するか」
 いつもその槍に付き纏っていた呪いの様な無様な性能。たとえその身が地獄に落ちようと、その槍は決して後悔しないだろう。しかし、ただ一つ己を断罪できるなら、その性能の悪し様をこそ殺してしまいたい。これではまた主に無理を掛ける。槍は槍であるが故に、どうしてもそれを凌駕しなければならないのだ。もう一度、彼女の槍でありたいと、そう願う心は霊格を得てからより一層強まった。
 だから此処だけは避けられない。この問いからだけは逃げられなかった。そして、もうどうしようもないのならば、槍は潔く己が魂その全てを砕き散らすつもりで居た。
 そうして致死の命題を問い掛ける。
「どうか。選定の身から見て、私は神の戦に耐えうるか」
 正対する戦乙女は幽かに微笑んだようだった。その微笑、槍には真意がどこにあるのかわからない。が、もう答えは得たような気がした。目の前に選定の神がいる。理由なら、それで十分だろう。
「その身は英霊の半身だ。槍よ、お前以上に勇者の槍である者など、この世界に居はしない。
 ――――折れてもなお正しいその魂。砕けてもなお朽ちないその絆。その奇蹟を基に、私が新たな刃を作ろう」
「そうか。――そうか」
 そして全ての契約が完了する。ならば後は、その英雄の魂に見合うだけの刃金と鋼鉄が必要なだけ。今まで属していた現実世界、その全ての理を超えるだけだ。戦乙女は今、その英霊たる半身に相応しいよう、神の鋼という名の祝福を与える。
「想起せよ。汝は誰か、汝は何か、汝は誰が為に奔るのか。その身が英霊であるならば、砕けぬ意志を以って応えてみせよ……!」
 言霊と同時に火が灯る。それは真っ白な羽の形を取って槍の上に落ちた。その聖なる火焔をもって、原子配列変換を成し遂げる。生まれ変われ、その魂に相応しく、と。
 その羽に焼かれながら、槍はただひたすら願った。自分は何者か、自分は何がしたいのか、自分は誰のために存在するのか、それら全ての答えをただ主のためにと断言した。
 応えられなかった後悔を。助けられなかった無念を。守りきれなかった血涙の咆哮を。純白の劫火で焼き尽くして貫いた。もう二度と、彼女の前で砕けはしない――――。


 全てに応え、共に駆ける。
 此処に誓う。今度こそ、私と貴方で幾千万の絶望に打ち勝とう。


 その願い。その祈り。応えるように白い転生の炎は燃え盛る。元は使い古した戦槍であり、メイガスの大魔術で折れた槍だ。だが、その身にあるのは血と見紛うばかりに染み渡り、通い合った紅い砕けずの意志。朽ちずに残ったのは貫き通した原初の心だった。その尊さに、どれだけの祝福が与えられるのだろう。
 戦を冠する軍神が槌を振り、神の白炎が猛る中、砕けぬと誓ったその魂が紅い鋼鉄へと鍛えられる。最早、その槍が人の力を超えることなど必然だ。誕生するのは、英霊の槍である。
 ……来たれ、紅い絆の槍。凄惨なる運命に背き、その全てに否と答えた不屈の魂よ。嘆きと慟哭を誓いに変えて、今此処に――――
「我とともに生きるは、冷厳なる勇者。いでよ――――!」
 炸裂する輝き。爆縮する白い火焔。眩いばかりに輝くのは神の力か、宿る魂か。純白の羽が舞い散る中、槍は想念を超え、幻想を凌駕し、あらゆる想いを凝結させて戦乙女の腕の中に具現した。
「与える。名を、閃き。銘を、心。冠するは汝らの成した奇蹟の名だ。砕けず、朽ちずに、主とともにその道を貫き通すが良い」
 深紅の槍がリンと震える。その気高い響きは英霊の名に相応しい。
 死ねないと叫んだのは戦士の心。負けないと吼えたのは彼女の強さ。その全てを見届け受け継ぎ、共に駆けた半身は、その砕けた身を紅蓮の鋼鉄へと昇華させた。刃に宿る深紅の煌きは、彼女が求め、掴み取った砕けぬ意志の輝きである。
 エイミはどんな運命にも負けはしないだろう。如何なる地獄をも貫き通すだろう。――駆け抜ける。その槍が腕にある限り。

 ――――ここに。英霊の槍が誕生した。



 こうして無意味でしかなかった結末を迎えた戦士の霊は、その愛槍とともに英霊として復活する。その先には決して安息などなく、ただ幾万と繰り返す戦争と地獄があるだけだった。
 神話で語られるラグナロクへの大戦争。連なる戦が怨嗟を呼び、世界は凌辱の限りを受けた。だがそんな中において、エイミは決して折れず、砕けず、神々の戦場を駆け抜けていく。
 戦乙女レナス・ヴァルキュリアに従い、全霊を掛けて戦い抜いた彼女のその腕には、常に、赤く輝く槍があったという。

 ◇ ◇ ◇

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