――――突然だった。
 最初に冷たさを感じたのは右の頬。次は左手。その次は体中だろうか。数が多すぎてわからない。それほど突然だった。それほど、突然の雨だった。
「――――あ」
 呟く暇もあらばこそ。雨は少女の着物を濡らす。足元に居た黒猫はいち早く軒下へと移ったようだ。
 ざあ、という音が辺りを灰色に染めていた。





 春。三月。午後三時。青空六に雲が四という空模様。それにしては少々寒い一日。最近はそんな日が続いている。
「うぅ、寒いですねー」
 朝にやっていたテレビの天気予報では例年より五度ほど低いそうだ。だがそんなことは画面の向こう側での数字であって、実際には六度から七度ほど低いだろう。春一番は当の昔に過ぎ去ったはずなのにちっとも春らしくならないのはどういうわけだろうか、とそんなことを思いながら、琥珀は庭の掃き掃除をしていた。
 彼女の足元、地面の上には冬を雪の下で過ごした落ち葉が多い。目に映るのは味のない土色と植物に独特の枯れた色。肌を撫でる空気はやはり冷たく、生命力を感じられない茶色の庭園は未だ春を拒んでいるようにも見える。
 しかし、目を凝らせば青や緑が混じっているのがわかるだろう。気の早い新芽はもう頭を出している。春待ち草の種々と色。細々と、さりとて力強く。どこか斑を連想させる緑の散らばりは土色の上に憂いも無く咲いている。周りの木々も葉に若い緑を掲げていた。
 つられるかのように差し込む日差しは、されどまだ弱い。そこに感じられるのは暖かさより儚さだ。
 どうやら太陽も必死なのだろう。だが、懸命さでいえばどちらも同じだ。草も木もその弱い光を求めるしかない。早すぎた春は不幸ばかりを背負ってきたようだ。時折吹く名ばかりの春風は微笑みながら新緑を散らし、舞う葉は無言で土へと堕ちる。
 季節の境目は正しく生死の境目だった。
 琥珀はそんな庭園に柔らかい笑みを零していた。



 庭掃除



 屋敷はいつも通り、ただ在るべきと佇んでいる。
 雲がある青空は、その色においてまだ深くない。また、春だからといって澄んでいるわけでもなかった。太陽はときに遮られながら緩やかな日差しを世界に向ける。それはためらうように雑木を抜け、遠野の庭へと入っていった。
 琥珀はその弱い光を受けながら、独り庭を掃く。
 光はそのまま箒の柄をするりと滑り落ちた。

 この日、主である秋葉はいない。なにやら生徒会の用事が立て込んでいるそうだ。一般の生徒に春といえばそれは陽気さを内包した休暇の時期だろうが、学園の運営に携わる生徒会役員には最も忙しい時期といえる。卒業、終業などの年度末に加え、進級進学入学始業と式典だけでも目白押し。さらには教諭の入れ替えや生徒会役員の引継ぎなど、秋葉にとっては戦いの時期でもある。そんなときに仕掛けないほど彼女はお人好しではなかった。現在ではほぼ毎日向こうに詰めている。
 一方志貴はといえば、先秋の終わり頃に出来た彼女のところへ出向いている。琥珀の知るところによれば、それは金髪で色白の美しい女性で、仮に美女という単語を使うなら冠として「絶世の」が付くだろう。そんな外国人女性だ。先の休み、ここ遠野家に訪れた彼女を見たとき、琥珀は彼女を無邪気な人だと思ったものだ。
 志貴の言うところによれば、最近の逢瀬はなにやら三学期末のテスト期間構ってあげられなかった分らしい。秋葉の反対とその女性の催促に板ばさみになる志貴は、彼女の目にはとても楽しそうな笑顔に映った。
「志貴さんも大変ですねー」
 苦笑のような言葉が出る。琥珀はそんなことを思いながら、地面に沿って竹箒を流していく。さらりと続く音色は軽く、心地よい。彼女がそうした後には箒に沿った綺麗な模様が浮かんでいた。小さな波模様。それを意識しながら屋敷から林へ向かって掃き続ければ、自然と模様が連なって綺麗な波形が出来上がる。それに密かな楽しみを覚えつつ、彼女は掃き掃除を続けていた。
 腕の振りに合わせて零れるのは綺麗なハミング。それに合わせてさらりさらりという箒の音が連なる。淡い笑みを纏った唇からは、ん、という声が彼女の気分に揺られて響いていた。琥珀は実に気持ちの良いテンポで落ち葉を掃いている。
 ……幸せそうな微笑みが歌声に乗ってゆらりと揺れる。箒が小石を弾いてかつんと音を立てた。
 微笑む彼女は変わらない。
 連続する声音は綺麗に音階をとって紡がれていく。共に動く箒と腕は振り子のように一律だった。
 風に溶けるその歌は彼女の周りをくるりとまわって空へと抜ける。
 薄灰色の雲が出始めていた。

 屋敷の玄関から門まで続く石畳の道。その屋敷に向かって右側、さらにその四分の一程度の広さの屋敷側。琥珀は今日の掃除の予定をその辺りと決めていた。
 午後一時半頃から始めて、だいたい一時間半。掃き掃除はほとんど終わり、枯れ葉や落ち葉が彼女の隣に小さな山を作っている。それを見て何か良いことでもあったのか、ふわりとした微笑を残して、彼女は裏庭へと移動した。
 そこには彼女の菜園がある。何年も前からある朝顔から最近植えた昼顔まで、ありとあらゆる薬草花がある琥珀の花園。彼女は今日も笑顔を浮かべながら草むしりをする。
 ぷち、ぷちという小気味良い音を立てながら一定のリズムで草を取る。毎日のことなのでそう生えていないのだが、それでも此処の土壌が良いせいか、目を離せばすぐに雑草が生えてくる。そんな誕生間もない草たちを機械的に殺していくというのが除草作業だ。何かを育てることはそれ以外を排除することを基礎に置く。そうしないと期待通りに咲いてくれない。
「こういうことはですねー、毎日かかさず行うことが大事なんですよー」
 草を取っては集め、集めてはまた屈み込んで草を取る。笑顔は毎日彼女の菜園にあった。それらを丁寧に取り除いていた。

 三十分ほど経っただろうか。棟一つ分の草や小石を取り終え、琥珀自身も園の端から真ん中あたりまで移動した頃。
 不意に、
「にー」
 と、どこからか声。鳴き声が聞こえた。それに手を止め、琥珀は辺りを見回す。まず彼女が見たのは目の前のサボテン。それから視線を右に動かすと朝顔の段が続く。さらに右に移れば昼顔の根元が見えた。そこに、
「あら、猫ちゃんですね。お散歩ですか?」
 黒い子猫が一匹。小さく丸まって琥珀を見ていた。首にはリボンが一つ結わえられており、その色もまた黒い。毛並みは良く艶もあり気品が伺えた。飼い猫だろうか。琥珀はそんなことを考えながら小さな訪問者を見る。黒猫はそれに合わせるように、しかし興味があるのか無いのかよく判らない色の瞳で見返していた。
 そのまましばしにらめっこ。黒猫はじいっと琥珀を見つめて、また琥珀も黒猫をじいっと見つめている。不思議な空間。小さく丸まって見つめ合う。黒猫も。琥珀も。見つめるだけ。それ以外何も無い。きっと今の二人にとっては色も音もないのだろう。お互い、特に何かを意識して見始めたわけではないが、見つめ合うことそれ自体が魔力でも持っているかのように。大きな興味もなく、だからといって無視するだけの理由もない。そういう、お見合い。だから不思議。
 だが、黒猫のほうは飽きたのか。鳴き声を上げたときと同じ唐突さで、ふいっと目を逸らした。
「あらら。残念」
 琥珀からはそんな言葉。彼女にはどうして残念なのかわからない。だけどやっぱり残念。そんな言葉がぽろっとこぼれた。黒猫は気にする風でもなく、されどそれに耳だけ動かして、その場に丸まっていた。

 それからしばらくして菜園の手入れもあらかた終わり。琥珀は曲げていた腰を伸ばすように「うーーんっ」と背伸びをする。ずっと曲げていたから少しばかり痺れるような鈍痛がある。そんな仕事後の疲れに、まだ若いんですけどねー、と苦笑を一つ零した。その彼女にちょんちょんと。何かふにっとしたものが触れてくる。
「?」
 そのふにっとした感触は左の足元から。彼女はなんだろう、と疑問符を浮かべながら伸ばしていた腕を下げそのまま足元に目を向けた。
「にー」
 目に映るのは自分の左足。その傍らには子猫がちょこんと。さっきまで昼顔の下にいたあの黒猫が前足を彼女の足に乗せて見上げていた。
「あら猫ちゃん。どうしたんですか?」
「にー」
 意外そうな琥珀の声には応えるかのような一鳴きが続く。琥珀はなんだろうと思いながらも、その可愛らしい姿に微笑みを浮かべる。そして彼女はその猫を驚かさないようにゆっくりとしゃがみ込み、そろそろと手を出してみた。
 黒猫はその手を興味深そうに見つめながらまた「にー」と鳴いた。その声に、琥珀は笑みを深くしながらもうちょっとだけ手を近づける。黒猫もそれを許しているのか、特に驚くこともなくその手を見つめて。
 ――――いつしか、琥珀の手は黒猫の目の前におかれていた。


 ◇ ◇ ◇


 猫は一時その手をじっと見つめて、それから琥珀の顔を見上げた。見えるのは彼女の着物と彼女の顔。琥珀色の瞳と柔らかい赤色の髪。自然な微笑みとあったかい雰囲気と、そして灰色の空だった。
「にー」
 思わず声がでる。何を思ったのかはわからない。子猫自身、何故鳴いたのか判らなかった。けれど、どうしても声を掛けなければならない気がした。声を掛けてもどうなることもないけれど、それでも声を掛けなければならない気がした。
 子猫は小さなしっぽを振りながらどうしてだろう、と思う。見上げる自分の目に映る彼女は笑顔。周りの空気もそれに習うようにふんわりとしている。ならどうして声を掛けなければならないなんて思ったのか。
 彼女の奥、見上げる空が灰色だったからだろうか。彼女の奥、琥珀色の瞳が揺れていたからだろうか。
 子猫には判らない。だがどうしても、子猫は今、彼女に声を掛けなければならないと思った。
「にー」
 声が出る。見上げる空はどんどん灰色を増していく。どんどん灰色を増していって今にも涙を零しそう。その隣には自分を見つめる琥珀色。柔らかい色を湛えた優しい瞳。透き通るにように優しい瞳。その色。けれど何か不安になる。それが何か子猫には判らない。判らないから鳴いた。判らないから声を上げた。それでも、見上げる先にある瞳は柔らかく笑んだままだった。
 それが何故か子猫の中に残る。中に残って描き立てる。子猫の中に何があるわけではない。それでも何かに触れるようだった。
 子猫はまた鳴いた。鳴いて、どうしようもなく、それでも鳴きたい。
 ……何か残るのは何故なのか。空が滲むのは何故なのか。彼女が笑うのは何故なのか。
 それらが子猫の真ん中に纏わり付くように描き立てた。だからだろう。鳴いてもわからない子猫は、知らず、傍にある彼女の泥のついた指を舐めようとしていた。
「だめですよー、猫ちゃん。こんな汚いものを舐めてはいけません」
 そう言って彼女は手を引っ込めてしまった。だが、子猫にはそれが無性にわからなかった。そのわからない何かは子猫の内側に残り、皺の寄った幕めいたもやに変貌する。くしゃりと動く、わからなさを生み出すもやになる。
 何故なのかはわからない。それでも何か、彼女が透き通るように見えたから子猫もわからなくなった。子猫がわからないと思うほど、内側のもやはくしゃくしゃと動く。
 何故彼女が透き通りそうなのかわからない。何故彼女のふわりとした笑顔が透き通りそうなのかわからない。子猫にはわからない。それが悲しいという感情だということがわからない。鳴く子猫も微笑む彼女も、そんなものは知らないからわからない。
 わからないたび、もやが出た。わからないから、もやが出た。
 ――――わからないから、くしゃりとなった。
 だから子猫はもう一度彼女を見上げる。そこには、もうすぐ涙を流しそうな空と、まだ涙を流せない瞳があった。
 子猫には、よくわからなかった。


 ◇ ◇ ◇


 菜園から出る。今日の分の手入れも終わり、琥珀はこれから買い物にでも行こうかと思っていた。ぱんぱんと音を立てて泥を払い、もう一度伸びをする。それから、彼女は後ろを振り返った。
 黒猫がついて来ている。とてとてというよりひょこひょこと。琥珀の後ろについて来ている。お薬の匂いがするのに懐かれたんでしょうか、と思いながらも、彼女は腹の少し上の方からよくわからない情が湧いくるのを感じていた。
「どうなんでしょうね」
 意味など無い、空の笑いが彼女を揺らす。誰が見ているわけでもないのに口元には手が添えられていた。それは彼女が定めた彼女の動き方。しかし、少しだけ。ほんの少しだけ、その動きはいつもと違っていた。
 琥珀はその些細な違和感に気が付きつつも、顔を綻ばせる。それが彼女に出来ることではあるし、それしか彼女には出来ない。微笑むこと。そうしていればまたいつもの自分に戻るだろう、と。こんな些細な不理解なんて押し流されるだろう、と。だって、今までそうだったのだから、と。琥珀はそう思う。しばらくの間彼女の意識はそこに佇み、身体はいつものように前に歩き続けていた。
 だがそんな琥珀に黒猫はついてくる。なんでもない子猫。菜園で出会った小さな客人。先程のにらめっこもあったので、親近感が沸いたのかもしれない。琥珀は、仕方がないのでミルクでもあげましょう、と屋敷の裏口へと歩き出した。
 その一歩。
 踏み出した足が地面に着くか着かないか。そこで、ポツリ、と。冷たさが琥珀を打った。

 ――――突然だった。

 最初に冷たさを感じたのは右の頬。次は左手。その次は、体中だろうか。数が多すぎてわからない。それほど突然だった。それほど、突然の雨だった。
「――――あ」
 呟く暇もあらばこそ。雨は少女の着物を濡らす。足元に居た黒猫はいち早く軒下へと移ったようだ。
 ざあ、という音が辺りを灰色に染めていた。

 雨。気が付けば既に濡れている。琥珀はそんな自分をぼうっと見つめる。冷たい。寒い。雨の色。灰色。煙るような。滲んで。流れていく全て。自分。目に映る雨の景色に同調するように、先の違和感がくらりと落ちてきた。なにか浮かび上がらせるようとするそれは、くすんだ石の色をしている。
 本当はそんなもの見えるはずが無い。形なんてないのだから。だから色なんてわかるはずもない。だがそれでも、琥珀にはそれが埃で汚れた小石に視えた。
 そんな、イシを視ていた。
 そんな、――――空を見上げた。
 灰色の雲。厚い雲。空にかかる蓋のように。覆いかぶさる滲んだ雲。そこから冷たい雨が落ちてくる。冷たくて凍えるような天のからの雫。その冷たい蓋の下に無機質な屋敷があり、濡れた窓があった。

 ……ああ、だったらそうなのかもしれない。

 この雨が冷たいのなら、あの雲も冷たいのだろう。だってあそこから零れてきている。覆いかぶさるものはいつも冷たくて、色の無い部屋はいつも冷たくて、天を見上げればやっぱりそこも冷たくて。
 見える世界はいつも冷たくて、ここは大きな蓋で閉じられていて。暖かい場所はいつも遠かった。

 ……わたしの周りには、冷たいものしかなかったんです。

 冷たい雨。濡れていく体。だが、それも彼女の中で交差していく。混じって、何もかも濁らせるようにわからなくしていく。わからなくなってふらりと記憶が遊びだす。
 思い出すのは遠い日。窓から眺めるだけだった遠いあの日。よく晴れた、光の日向。記憶の中の自分はやはり窓から庭を眺めていた。そこには何があっただろう。覚えているのは窓から見える透明な庭。四角く切り取られた日溜りと、何も知らないでその中を走り回る笑顔の数。よくわからない美しさとやはりわからない憧れがあり、理解出来ないあたたかさと唯一わかる怖さが見えた。
 彼らは無邪気で不安など何もない、水槽の中の魚に似ていた。ガラス張りの箱庭で一生懸命お遊戯している魚たち。本人達はきっと小鳥。いつか大空に羽ばたいていける小鳥だと思っている。自分たちを阻めるものなど無いと確信している。
 見るたびに思った。
「幸せって、何ですか?」
 掠れるだけの問い掛け。誰にも届かないことは知っていた。意味はとうの昔に擦り切れていた。問いの先には彼らが居た。
 籠に気が付かない小鳥たち。大きな空は遥かに遠い。きっと届くと信じている。知らないではしゃいでいる。彼らはいつも笑顔。そんな彼らを見ては問い掛けた。家だったか血だったか。男が苦しみ苛まれるたび語った檻の話。あの庭は、本当はガラスの容器の中。透明な壁に囲われている仮初めの自由。決して抜け出すことなど叶わない。
 今もまた問い掛ける。幸せに嘘を付かれ気が付いていない彼らに、幸せとは何ですか、と。答えは返らない。彼らはいつも通り笑顔で、満面の笑みで、空を見上げる。しかし、その空は黒色に濁りつつあった。
 じきに、雨が落ちるだろう。
 黒い灰の空に悪態をつく男の子。残念がる女の子。彼らは遊びを中断させる暗い天蓋を囀りながら見上げている。
 ……そんな遠くの壁よりも、もっと近くの檻に気が付かないんだ。
 繰り返すのは、家だったか血だったか。自分たちが既に囚われていることに気が付かない。鳥なら籠に気付くだろう。だから彼らは魚だ。悠々と泳ぎまわれると錯覚している、水槽の中の魚だ。もらえる空気が無くなれば口を開けながら浮いてくる。濁った水から逃げられない。飼育されている魚たち。きっとそのうち、目の中の光も濁るだろう。
 今彼らは降り出した雨の中、不満そうにお遊戯の舞台から退場していった。灰色に変わる世界を見ていた瞳はそれとともに静かに閉じられる。
「幸せって、何ですか?」
 か細く呆けたような声がした。響くことなく落ちて沈む。
 彼女にはわからなかった。知っている彼女は幸せではない。知らない彼らもきっと幸せではないだろう。
 暗い部屋と目に見える縛鎖。明るい庭と目に見えない水槽。何も考えなければどちらも幸せかもしれない。そう思って彼女は止めた。
 残ったのは透明な窓と先ごろから降り出した雨。映る半透明の自分はこちらを見ながら濡れていた。顔に色は無い。硝子の自分を透かして見つめるその先にはあの庭。滲んだ嘘の残り香があった。彼女は透ける自分を見続けた。

 記憶の中の自分はそこで途絶え、それから先は同じシーンの繰り返しだった。雨はそんな琥珀を知ってか冷たさを増していく。世界はどこも濡れていた。
 彼女の中の違和感ももう感じられなくなっている。小さな石は水の中にでも落ちて消えたのだろう。そんなことを思いながら、琥珀は落ちる雨を見る。足元にはもう小さな水溜りが出来ていた。
 今水に映る自分は笑っていない。おかしいなと、笑おうとするが何故か駄目だった。言う事を聞かない自分の顔から目を背ける様に屋敷の方を見ると、黒い子猫が琥珀をじいと見ていた。
 真っ暗なその色は、どこか水中を思わせる。雨に濡れても光ることさえないその黒は、今の彼女にとってどこか落ち着く色に見えのだろう。そのまま、琥珀は引き込まれるように子猫を見続けた。
 ――小さな石は水に落ちても消えない。波紋を残す。
 何かわだかまるものがあった。
 長い同じシーンの繰り返しはまだ頭の中で続いていた。
 そしてやっと違う色が見え始める。

 あの日。白く熔けていくような夏の日。あの男の子が血塗れになって死んだ日。
 どうしてそこまでできるんだろう、と。どうして、そこまでして助けることができるんだろう、と。それなら、どうして、タスケテくれないんだろう、と。
 そう思って憎んだ。そう思って見ていた。あの日の窓。映った自分は怖い顔をしていた。

 見つめる猫の目は変わらない。暗い水中は琥珀に濁った様な色を連想させる。何故こんな雨にあの日を重ねたのか。今は、それがわからないことなどどうでも良かった。あの窓は、今では高い場所にあった。
「ねえ、猫ちゃん。わたしはね、それだけしかなかったんです。それだけしか、なかったんですよ」
 琥珀は窓を見上げながらそう呟く。雨に、灰色に滲む世界に独り、琥珀は窓を見上げてそう呟く。感傷か、反射か。話す琥珀は理由もよくわからない呟きを子猫に向けた。その横顔に笑顔はなく、その瞳にも柔らかさはない。在るのは混じりすぎてわからなくなった色。それでも淡い、淡くしかない色。
 彼女の頬には雨が伝う。揺らぐ琥珀の瞳に落ちて、そこから一心に土へと還る。
 子猫はそんな彼女を見つめる。見つめるたび、子猫の中のもやの幕はくしゃりくしゃりと音を立てた。
「だからでしょうか。わたしはお芝居をするようになりました。そうしないと生きていけなかったんです」
 雨は一層激しくなる。冷たい雨。それは冷たい雲の欠片たち。それが彼女の代わりに零れて落ちるのなら、それは彼女の欠片に違いない。
 彼女の頬を伝い続ける雨。瞳から、ただ流れ続ける。だが彼女は泣けない人だった。彼女は泣かない人だった。
 それは儚い色を思わせる。
 透明な色。だけど少しだけ濁った色。そうなるしかなかった、そんな色。そんな彼女。琥珀色。その瞳。それを見続ける子猫は何もわからない。ただ内側のもやに苛まれ、鳴くことさえ叶わない。
 ――――彼女を見ていて悲しかった。彼女は悲しい。
 それが子猫にはわからない。知らない。知っていても言葉にならない。わからないから声が出ない。出ても、空の鳴き声が響きもせずに落ちるだけだ。
 ――――届かない。
 だから子猫はもう一度だけ、鳴いた。子猫の中、もやの幕は一層くしゃくしゃと動いたけれど、一度だけ鳴いた。
 それは向けられた琥珀にとってどんな意味があったのだろうか。子猫に語る物語はあまりにも悲しくて相を打つには足りなすぎる。だから琥珀には届かないのか。
「ごめんなさいね、猫ちゃん。こんなお話しても、つまらないでしょうけど」
 そして琥珀は雨の中、鳴く黒猫に微笑む。だが、それはきっと子猫に向けられたものではない。それはきっと誰にも向けられていない。微笑むことしかできなかった彼女の、唯一つの感情表現だから。だから、それはきっと彼女自身にさえ向いていない。それさえ、そんなことさえ彼女にはわからない。子猫にもわからない。

 だから、この悲しみにはきっと果てなどないのだろう。

 知らない者とわからない者の透明な悲しみは、綺麗な和音を奏でながら次第に世界を染めていく。
 ならば、天は本当に泣いているのかもしれない。その哀れを唯一知っているから慟哭するのだろう。だが、それが何の慰めになるか。悲しさを知らない彼女と、悲しみをわからない子猫に、果たしてそれが何の慰めになるというのか。
 何もならない。
 だが、天は泣く。その涙に濡れる彼女が雫の冷たさに凍えることも知らないで泣き続ける。だから、いつも世界は冷たいのだ。その涙さえ、人には冷たく落ちるのだ。
 慟哭する天。落ちてくる空。冷たい欠片。その中で子猫は琥珀を見続けた。もう声を出すこともない。そして琥珀もわからなかった。ふわりとした偽る笑顔を灯して子猫に向ける。
「わたしはお姉ちゃんだから――――」
 止まらずにただ語り続ける。
 交わらない。決して交わらない悲しみの連鎖。三者の悲しみはただの一つも交わらず、螺旋を描いて堕ちていくだけ。底にはきっと何も無い。何も無いけれど止められない。止められる何かが見つからない。――――いや、見つかるはずが無いのだ。何故なら、
「お姉ちゃんだから。翡翠ちゃんが幸せならそれでいいんです。今は、そのためにいるんですよ」
 彼女は決めていた。彼女は動いていた。そして既に、彼女は終わっていた。

 ――――彼女は人形だった。

 ならばそこに。そんな彼女の上に、いったい何が見つかるというのか。涙を流す灰色の空にはわからない。悲しみを見続けるだけの子猫にもわからない。この悲しみを止める術など有りはしない。彼女が望むのだから。彼女が求めるのだから。だから、きっとこれは止まらない。彼女が止まるまで、止まらない。
 それが、今、この場にある全てだった。



 雨はいつか止むだろう。
 子猫はいつか去るだろう。
 だが、残された彼女は、一体どうすればいいのか。その答えも見えぬまま、彼女の日常は続いていく。
「さて、雨が止んだら、お掃除をしなければいけませんね」
 天は哭いた。
 子猫は鳴いた。
 しかし、彼女は泣かない。泣くことを知らない。
 そんな笑顔のままで、彼女の日常は続いていく。





 <了>





あとがき:
 アルクェイド Good End 後の琥珀さんです。
 月茶 End 後ではないのでご注意を。
 お読みいただきありがとうございます。
 今の季節とは合いませんね。失敗したかもしれません。



 岩蛍

 2004/08/01 (初稿)

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