必要と不必要。
 それだけの部屋。認識するならば必要な存在が白く、不必要な存在はそもそも色など無く暗いだけ。およそ灰色だ。彼女に言わせればなんとも味気ないそうだが、私にはこれが好ましい。
 何故必要でない物を認める必要があるのか。汚濁の素を好んで内包するなど正気の沙汰では無い、と。彼女にはそう答えたものだが、返ってきた返答は「つまらない」の一言だった。
 ――――ただの自室。今、其処にいる。
 仄かに照らすランプの灯。使い古した机。隣には積み上げられた書物。聖水の匂いが漂う中、私は簡素な寝具に身を預けていた。読んでいた書物を閉じ、瞑目する。
 書を閉じると目を閉じる。意味は同じだ。知識を映す存在を閉じるのも、知識を視る存在を閉じるのも、その終着は同じである。どちらもこれ以上情報をもたらすことなく、その効用は停止する。ただし、それは受動的な側面のみであって全てが同じということではない。書は閉じられた後に広がることはないが、目は閉じられた後にも意識となって広がり続ける。それは確かだ。
 知識と意識の差。――――それが書と視の差であり、受動と能動の差でもある。
 視界を閉鎖した後、己が内界に潜る。外部からの知識を道具として用い、世界を開拓していく過程。知識をして意識を語るのでは無い。意識をして知識を使うのだ。
 潜る。そこはある祈りを知っている。空の己に唯一つあるもの。
 信念など無い。
 ただ、最初に永遠を識っただけだ。





 ロア短編 ――――ただ清らかな





 ――――初めの感情は、むしろ憐憫だった。

 命。それは落下である。
 そこに果てなど無い。全ては発生した瞬間から落ち続ける。墜落だ。一時も留まることなく、一瞬も止まらない。
 例えばそれは形である。形が成れば発生し同時に祝福を受けるが、それは一体どんな祝福なのか。誕生を祝う喜びの歌か。未来を夢見る希望の詩か。或いは、生命そのものを尊いとする命の歌かもしれない。
 ああ、なるほど。たしかにそれは存在する。命が命である限り、それらの権利は失われることなく須らく平等に与えられるだろう。
 だがそれだけか。――――もう一つ、必ず与えられる祝福が存在する。
 ……終焉を約束された故の、嘆きの詠。
 必ず授与される。必ず付加される。何者にも避けられず、逃れられることなどない。発生とは果てにある消滅と同義である。形は、必ず崩壊する。
 それは際限なく壊れていく。それは際限なく薄れていく。それは際限なく忘れていき、また際限なく埋もれていく。落下である。それはただ落下である。
 だが。発生した存在はこれこそが己が生であると叫ぶかのように、懸命に存在しようとあがき続ける。そしてそれが叶わぬと識ると生み続ける。――発生だ。幾度無く発生。これは最早誕生などではない。意思などあろうがなかろうが構わない。必要なのは続けることと繋げること。形を成すことを続けるためだけに生み続ける。幾度となく、生み出し続ける。
 これを生産的な行為と称するのは、果たして愚者か賢者か。
「――――どちらにしろ、ろくなものではない」
 知識が無いと気付きもしない無価値な者か、知識が有るだけで使いもしない無意味な者か。両者の差などそれだけだ。よって、アレを生産的であると述べるものは、そのどちらでもありどちらでもない。無価値で無意味だということが共通しているのは偶然ではないだろう。それでも生み出し続けるのだから、――――報われない。
 無論、死にゆく存在が報われないのではない。その行為を理解できないことが報われないのでもない。それらは必然だ。彼らが正純な生命である限りそれらの矛盾は付き纏う。これを尊いと言う者もいる。これを敬う者も居るだろう。遥か彼方から連綿と受け継がれる情報の螺旋。個の繋がりをもって全を語る不断の道筋だ。先祖が在り、その繁栄の証として己が在り、そして彼らは互いに尊重し、また誇るだろう。我々が築き上げてきたものは不敬ならざる至高のものである、と。
 だが、――――なんだそれは。そんなもの、連なるだけの錆びた鎖と何処が違う。
 いや、鎖ですらない。ただ失われていくだけの自己満足と他者に強制することでしか記録できない偽善の断片。主観でしか意味を得ない幸福やその付加価値とそれらを全体化しようとする毒の漏洩。アレは、それらで編まれた汚濁の譜面だ。雑音だらけの主旋律に気付かず、さらに不協和音を追加することで美しいと感じるような、いっそ狂的な聖歌の調べだ。
 ……透けて見える。
 そのように取り繕うことでしか死にゆくことに価値を見出せないのなら、それこそ矮小さの証明である。断言しよう。そこには一銭の価値も無い。
 受け継がれる情報は欠落と誤解を含み既に歪。個の繋がりなど弱者の群れと変わらない。含有しているのだよ、我々は。原初の一から続く毒物を。
 ならば我々には初めから救いなど無い。死にゆく者はただ死に行き、本質を理解できない者はいつまで経っても理解できない。これらは報われないのでは無い。これらが我々を示すのだ。初めから救いは無いと決定されている。
 だが、報われない。まるで報われない。そうだ。報われないのは、その試みだ。
 それは永遠を望もうとする祈りである。気高く、純粋で、果てしなく高潔なその祈祷である。何者にも染まらず、何者も染め得ず、何者も染めない、孤高の最果てに位置する清願である。しかしこれこそ一銭の価値も無い。まず需要が無い。次に存在しない。そして誰も求めてなどいない。
「だが、壊れていくものに興味は無い」
 繰り返される祈り。それはまるで呪いのようであり、だが決して堕落しない。観測され消費されるだけの祈りであるのに、止まらず朽ちえずひたすらに繰り返す。滑稽だ。求めるだけなら知恵はいらない。だがそれではあまりにも報われず、そしてそれはあまりにも繰り返す。そこに何が在るのかはわからない。わからないが、およそ考え得るものは美徳であり、欲望であり大罪であり、そして真理であってそのどれでもない。この祈りには何もかもがあり、何も無いのだろう。

 ――――その、色の見えない祈りを。ただ一つの清らかなものに代えようと思った。

 それだけだ。それを目的とした。それを目的として生きてきた。そこに価値の有無は存在せず、意味の有無もあり得ない。ただ定めた。それが全てであり、それ以上何も必要ではない。
 決意、誓い、信仰。約束や誇り。美徳と道徳。罪と罰。懺悔と贖罪。善と悪の定義に中庸の思想。数多の愛という言葉と意味。あらゆる人間性と主観による計測。――――無駄だ。それらは全て無駄だ。害悪でさえある。
 結果があればそれで良い。
「命題に対する結論。それを具現し結果とする。私が求めるのは、それだけだ」
 信念など無い。ただ、最初に永遠を識っただけだ。





 仄かに照らすランプに目を向ける。それはここに沈殿する暗闇を裂くにはおよそ不十分な灯りであった。しかし、だからと言ってその炎を強めようならば、硝子の器は容易く壊れるだろう。
 ランプとは、夜を退け、明るさを与えるものだ。だが、そこに微かでも暗さが混じるなら、それは望まれた機能をはたしていないことになる。火を強めれば壊れ、そのままあっても役に立たない。
 内側を精錬しようと器が耐えられなければ存在として成り立たない。
 そして、そのまま在っても価値は暴落し、無価に成り下がるだけだ。
「――――同じだ」
 人間という限定機能。そこに限界を感じた。
 いや、感じたのではない。それは真実であるのだから知覚し認識したのだ。人間であること。それには最早価値が見出せない。ならばどうするのか。
 簡単なことだ。人間であることに価値が無いならば、人間でなくなれば良い。
 ただし方法は限られる。器を換えずにその機能を拡張するか、或いは器の中身を変えずに器を作り直すか。だが真意ではこれだ。
 ――――機能が限定されているならば解除すれば良いだけ。
 彼女は私を生き急いでいるという。だがそれこそおかしな話ではあるまいか。人は腐ったオレンジに銀貨を支払うことは無い。折れたはしごを使うことも無い。そして、どの側面から見ても利潤を生まない産業を継続し続けることはないし、不出来な使用人には暇を出す。価値が磨耗して無くなったものに付き合うことのほうが人として正しくないだろう。ただ大多数のものがそれに気付かないか、もしくはその必要性を感じていない。
 つまり、私には人間という器が既に無価値であり、より長い時間の稼働に耐えられ、より高い機能を引き出せる器への交換が必要だったというだけだ。
「それだけですよ、ナルバレック」
 ……さて、それではその方法だ。
 理論を完成させるためにはある程度の環境が必要。そのために最も効率の良いやり方は、力を示すことだ。それによって確固たる立場を獲得する。その理想的な立場とは、「誰にも干渉されない」という条件を満たさなければならない。
 既存の祖に警戒され、しかし手出しされるほどではなく。協会からは監視され、しかし邪魔をされない。そして埋葬教室からは認知されるが、無視される。この三つ巴の不干渉を成立させるだけの力と目的を示せば良い。
 なんとも俗物的だ。しかしだからこそ精密に行わなければならない。そうして環境を成立させる。いわば工房だ。そこには特に強力な結界も必要ではないし、特に攻撃的な防衛手段もいらない。世界におけるパワーバランスの譜面上、その均衡点、そしてその僅か隣の空白に位置するなら、ただそれだけで事足りる。
 ――――無視せざるをえないか、もしくは干渉しても意味が無い。
 私の立場はそうあるべきだ。ある程度昇り詰める必要があるが、しかしことさらにそれを必要とはしない。彼らにとって有害ではなく、だからといって無害でもなく。最優先の処理対象ではないが、リストに載らないわけでもない。
 そういう立場を――――作り上げよう。そのために、
 ――――この身は最も優れた吸血種になる必要がある。
 なに、大したことではない。全ては手段。永遠を実現させるための道具でしかありえない。最高の機能を有する器と全く干渉されない環境。機材と部屋がそろえば研究は飛躍的に進むだろう。私の魔術理論はそこで完成する。
 ……ああ、そういえば。真祖どもが居た。だが、あれらは既に世捨て人の類だ。後でどうとでも対処できる。
「――――では、彼女の部屋に行きましょうか」
 身を起こす。
 後に遺すものなど無い。灰色の部屋はやはり灰色だった。
 机上の書物を一つだけ手に取る。その足で扉に向かった。
 最後に、ランプの灯を消した。





 <了>





 あとがき:
 ミハイル・ロア・バルダムヨォンの短編でした。
 あとはあの会話をして、真祖達の住む城へ、というところ。
 ロア像、こんな感じだと思うんですよ。


 岩蛍


 初稿 2004/07/05


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