神無月



 十五夜の月は綺麗です。綺麗で綺麗で今にも呑み込まれそうです。
 昔の人は、その月の様があまりにも綺麗なので、地上に最も近づくのだと思いました。
「人間である私達でさえ、こんなに月が綺麗だと思うのだ。神様だったらなおさらだろう」
「だったら、どうするかな。あんまり綺麗なので、月に帰ってしまうんじゃないかな」
 人はそう思ったそうです。
 十月。最も月が地上に近づく月。
 真偽の程は定かではありません。けれども、錯覚だろうと噂だろうと、皆それを信じます。帝も尼僧も村人も、皆それを信じました。
 人間たちのそんな思いは心の底の大きな海に落ちていきます。皆信じているから、そのぶんたくさんたくさん溜まりました。そうしていつしかアラヤの岩戸は開かれて、星は月へと逢いに行きます。
 月への道は、築かれました。
 でもそうすると、月に神様が帰ってしまうから、地上には神様が居なくなりますね。
 人々は泣きました。ああ、この星には今、神様はどこにもいない。誰が私達を見守ってくれるのだろう。心細い。寂しい。悲しい――。
 人々はあんまりにも悲しくて、あんまりにも苦しかったので、その月の名前を神無月と名付けたそうです。
 以来、望月が昇る十月は神無しの月と呼ばれるようになりました。



「へぇー、そうなんですか。琥珀さん」
「さあ、どうなんでしょうね」
「あれ? 知ってて言ってるんじゃないんですか」
 なるほどと頷いてしまった志貴は、不思議そうな顔つきで目の前の琥珀に疑問を向けた。よく見ればその顔には少々のバツの悪さも入っている。彼はいつも通り素直で、いつも通り騙され易い自分を恥じているようだった。
「いえいえ、昔の人が言ったことですので。たとえ伝え聞くときにそれが捻じ曲がったとしても、私の知っていることとしては本当であり、事実としては嘘かもしれません」
 そんな志貴を真正面に見ながら、琥珀はくすりと笑った。彼女にとって彼のこういう仕草は好ましく、またありがたい。からかうのも楽しみであれば、触れ合うのも心地よかった。
 今、志貴と琥珀は彼女の部屋で二人、お茶会をしている。何かの拍子で志貴が琥珀を尋ね、また琥珀が招き入れたのが発端であったが、今となってはその原因などどうでもよかった。ふわりとした時間の流れに紅茶が香り、彼女独特のゆったりとした雰囲気が部屋全体を包んでいる。二人ともただ向かい合って座り、とりとめの無い会話を楽しんでいた。
 志貴は琥珀の言った少しチグハグなことを考えていた。伝え聞くことが捻じ曲がっているのに、彼女の言うことが本当とはいったいどういうことだろうか。もし伝え聞くことが間違っているのだとしたら、今ある寓話も間違っているし、そもそも事実なんてわからない。そこに本当のことなんてあるはずがないじゃないか。そう思う志貴は、訝しがりながら琥珀の笑顔を眺める。
 本当のこと。それは何を基準に本当なのかわからない。特に自分のことさえよくわからない人間たちにとって、本当のこととはいったい何を指すのだろうか。
 だが、この「本当」という単語はよく聞き、よく使う。日常的には言わないほうが不自然だし、自分にとって変えがたい事実であることは本当のことに決まっている。
 わたしは本当にこの音楽が好きだ。この人は本当に良い人だ。吸血鬼は本当に血を吸う。そうやっていくらでも出てくる本当と謂われる事柄。
 そこにあるのはただ本当で、疑う余地もなく、当然の事柄だ。だったら、それは自分が本当だと価値を置く限り、本当であり続けるのだろう。
 そこまで考えて、志貴はようやく琥珀の言ったことを納得し、結論した。
 ……本当のこととは、そうやって出来た自分の世界にある、疑いようのない何かなのかもしれない。ならばそれは、きっと自分の欠片であり、自分自身なんだろう。
 さっきの話は、まさしく疑いようが無い。その出来事が起きたのは何百年も昔だし、その頃から残っている文献や資料が伝えることが間違っているかどうかなんて琥珀にはわからない。だから、彼女の知っていることは彼女の中では本当のことでしかあり得ないし、事実は嘘かもしれなかった。
「なるほどね。伝言ゲームか」
「そうですね。伝言されることを疑っても仕方が無いですし、確かめる方法はありません。わたしに出来るのは、嘘か本当かの天秤をどちらにも傾かないように聞いたり話したりすることだけです」
「……うん。そうだね」
 志貴はそうやって話を聞きながら、ふと彼女の言う本当とはいったい何を指すのだろうと思った。本当のこととは、謂わば自分だ。絶対的なものさしを持っていない人間ができる唯一の真偽を信頼する方法は、自身の主観でしかないのだから。だったら、彼女の言う本当のこととは、彼女自身の何を指すのだろうか。それは本当の彼女なのか、それとも彼女の本当なのか、それも志貴にはわからなかった。琥珀が本当と思える「本当の彼女」はきっとまだ居ないのだろうし、「彼女の本当」が彼女の生きてきた理由だというのなら、既に自分が殺してしまった。月が銀の眼に似て、罪を咎める蒼い光を地上に穿つ夜の学校で、彼、遠野志貴は妹の遠野秋葉と殺し合い、そのときに琥珀の全てを壊してしまっていた。

 ――知ってる。そんなコトは、前から解っていたんだ、秋葉。

 真紅い鬼の威圧の向こう側で、彼はその本心を語った。縋る妹をただの一手で刺し貫く、鋭利に過ぎる言の刃は、彼をして語るならまさしく直死のモノだったのだろう。それほどにこの告白は真実で、秋葉には致命的な猛毒であり、また琥珀には崩壊の兆しだった。
 あのとき、不思議そうな声を上げたのは、果たして誰だったのか。

 ――だから琥珀さんが何をしようと――――俺は、琥珀さんを信じていただけなんだから。

 彼は覚えている。その言葉を、遠く、はるかに届かない故郷を眺めるように呆然と聞いていた彼女を。その瞬間に彼女の全ては殺された。彼の本当がそこにあった。
 そして、赤い灼熱の夜が明けて数日の後。琥珀は今、本当の彼女を探している。それまでの彼女の本当は彼が殺してしまった。また、いくら愛しているからといって、志貴が琥珀の本当のものを決め付けるわけにはいかない。本当の君は此処にいる、などと無責任で浅慮な言葉を投げるわけにはいかないのだ。それでは彼女はまだ誰かの決めた何かのために事を為す人形のままだ。志貴は、自分に好意を抱く琥珀という人形を欲しいわけではない。彼はただ彼女が彼女であるようにしたかった。
 琥珀も今、そんな志貴の想いを理解している。二人とも、それが最も険しい道のりだと知っていた。
 だから、本当を探すために生きている彼女の、本当のことはいったいなんだろう、と。志貴は、ふとそう思ったのだった。

 ふうと、志貴は短く溜め息をつく。その合間に紅茶をすすった。立ち上る湯気から顔を上げれば、そこには笑顔の琥珀が居る。向けられる微笑みはあの日までのにこやかなものではなく、どこか臆病で寂しそうな、それでも活きている自然な微笑みだった。見ているだけでこちらも幸せになる。今、ここにある柔らかく温かな空気は彼女が居てこそだと、志貴はそう感じた。
 これが彼女の本質なのだろう。だとすれば、常時にこやかであり続けるための、ひび割れた仮面めいた張り付けの笑顔は、彼女を守る壁だったのかもしれない。臆病で、寂しがりやで、一人ではどこに立っているのかもわからない、そんな弱々しさが彼女の奥の柔らかい部分である。そこには、タスケテと連ねて呪った古い傷が刻まれている。そんな場所を他人に見せられるほど、彼女はかつて強くなかった。
 志貴は、もう今は気が付いている。琥珀は彼女なりに自分を出していることを。まだおぼつかなく、手探りではあるけれど、それでもそこに彼女の幸福があると信じたかった。もう不幸には、させたくない。
「ねえ、琥珀さん」
「はい」
 志貴の呼びかけに彼女は少しだけぎこちない笑顔で応える。その彼女の名前を呼ぶ一言に、いつも以上に熱がこもっていることを琥珀は感じていたが、志貴の真摯さが彼女に全て伝わることは無い。まだ琥珀は自分に向けられる温かさに戸惑いを浮かべるのが精一杯だった。彼はそんな彼女に一度頷き、微笑み返す。そして、抱きしめるほどに丁寧な口調で話し始めた。
「さっきの神無月の話だけど。もしかしたら人は、やっと神様から離れて本当の自分を探すことが出来ると思ったのかもしれない。だから、過ぎ去った今までのことを月日に刻んで、ここからもう一度歩いていくために主無しの月と名付けたんじゃないかな」
 琥珀の顔から笑みが消えた。同時に不安の色が強くなる。それはきっと彼女にも判っていた。これから先、琥珀は自分を探さなければならない。それでも、恐れが強く彼女を苛む。
「――そうですね。そうかもしれません」
 神様たちの居ない夜。彼らによって動かされることの無い人々は自由だ。それに比べて命令に突き動かされて何かをするのは、とても生きているとは言えない。まるで人形だ。そんな様が酷く滑稽な形に見え、また琥珀がそんな話をするのが気になって志貴はあんなことを言ったのだった。このことが彼女の傷を開くことになるのは知っていた。
 それでも志貴は言った。そして琥珀もそれに正しく応えた。今在る不確実な彼女が出来る、一番誠実な答えがそこにあった。
「ねえ、志貴さん」
 問い掛ける琥珀は今にも崩れそうなほど真剣だった。その目は不安に揺れている。手にした紅茶のカップも小刻みに震えていた。そのカップを小さなテーブルに置き、わずかに居住まいを正して琥珀は志貴の瞳を一心に見つめた。放たれた問い掛けは今にも落ちそうに中空を舞いながら、志貴の元へと向かう。
 震える唇が紡ぐのは、いったいなんだろうか。視線には志貴を貫くほどの力強さは無い。ともすれば縋るような弱ささえ滲んでしまいそうだ。しかし今、たしかに琥珀は剥き出しの心でいるのかもしれない。琥珀色の瞳は滲む弱さを必死で拒んで、彼女の精一杯を伝えている。
 志貴はそんな彼女を支えたかった。言って欲しい。伝えて欲しい。そしてできることなら、信じて、欲しい。彼女に応えるようにただ真摯な自分を彼女に向けた。
 琥珀の白い喉が少し動く。緊張感が部屋の空気を変えた。志貴はただ琥珀を待つ。彼にとって今の時間が永劫にも等しく、祈りにも似た純化された精神が彼を一心に彼女へと向ける。二人は、向かい合い、見つめ合った。
「志貴さん――」
 か細く。しかし強く、琥珀の声が聞こえた。

「わたしが、本当の琥珀になるまで、待っていてくれますか?」

 琥珀色の瞳は未だ震えている。伝えたことの熱さに、白い肌が焦がれて赤く色づく。恐ろしいと感じた。砕けそうだと思った。以前には感じられなかったことが、今少しだけ見えた気がした。そんな息づくだけで灼けていく想いは、頭をひたすらに白く塗った。呼吸がつらい。ままならない。ひたすらに熱い。だけど、この灼熱感が愛おしい。孕む熱に浮かされて彼女は今、染まった。
 だが、それは志貴も同じだ。伝えられた真実と待ち望んだ答えは等しく、そこには描いた彼女の幸せがあった。
 彼女の幸せを志貴が身勝手に夢想するなど、それは酷いことなのかもしれない。彼女を貶めるだけかもしれない。卑劣なのかもしれなかった。だがそれでも、志貴は願わずにはいられない。彼女がただ彼女であることを。彼女がそうやって、彼女でありたいと願っていることを。彼女が彼女であるならば、その果てに自分が嫌われても呪われても、いっそ殺されたって構わない。――志貴は、琥珀を愛していた。
 今この少しの間、静寂に沈んだはずの部屋は熱を帯びる。そして、それ以上に焦がれる想いは、ただ言葉をもって結実して欲しいと歌っている。そう思う琥珀は、自分が暴走しているのを感じていた。生まれて初めて抱いた大きな不安と小さな期待が彼女をそうさせるのだ。知らず、手は汗を握っている。
 そして、その焦熱の気配の中、志貴は静かに彼女に答えた。
「待ってる。琥珀さんが本当を見つけるまで、俺は待っているよ」
 二人は、このときほど嬉しかったことはないだろう。想いが全て通じたなどとは思っていない。相手のことが全て解るなんてこともありえない。これは、愛を遠ざけた少年と、愛を知らなかった少女の物語。だからきっと不器用で、臆病で、幼い恋なのかもしれない。それでもたしかに、このとき志貴は琥珀の裸の心を感じられた。たしかに、琥珀は志貴の温かさを受け止められた。たとえ幼い恋だとしても、それはどれほど尊いことなのだろう。
「はい。志貴さんならそう言ってくださると思いました」
 二人の心の底から溢れて零れる微笑みが、部屋の熱さを心地よさに変えていった。テーブルの紅茶はもう冷めてしまっていたけれど、紅い水鏡に二人を映してどこか笑っているように見える。
 彼らは今まで、幸せに遠い二人だった。どこかで何かがずれていれば、片方がもう片方を殺していたかもしれない。二人を今に繋いだのは、ためらいと裏切りと、信念と愛情だった。それを奇跡のような偶然が繋いで、今の彼らを為している。
 幸せとは、二人にとって遠かっただけなのだ。決して届かない場所にあったわけではない。





「それで、琥珀さん。これからどうするの」
 そう言った志貴に答えた琥珀は、まるで向日葵のような輝かしさを持っていた。その優しい美しさに、一瞬心を奪われる。

 ――――はい。わたし、やりたいことが、あるんです――――

 そう言った彼女は、本当に綺麗だった。
 志貴は思う。きっともう彼女は、本当の自分を見つけている。





 <了>





 あとがき:
 10 月にアップしたかった作品なのですけども。書き始めたのが 10 月 30 日で、書き終わりが 11 月 1 日です。30 日に思いついたプロットなのに、10 月以内に出そうと思うほうがどうかしているのかもしれません。
 神無月の由来についてはよく知りません。幼い頃、母親が寝物語に語ってくれたのを記憶から引きずり出して引用しましたので、正確ではありませんし、ひょっとすると全く違うのかもしれません。
 今回の SS は、特に志貴を書いてみたいと思いまして。私なりの志貴という書き方になってしまいましたけども、楽しんでいただければ幸いです。


 岩蛍

 2004/11/01 (初稿)



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