音がした。
 それは音があるのではなく、音がするのでもなく、ただ認識としてある種の振動が瞬間以上前の過去に確実に存在したという判断だ。それを音が聞こえたと表現するのは、一定量以上の経験と知識がある者ならば当然だろう。しかし、それは堕落である。
 知識として認識するわけでもなく、情報として認知するわけでもなく、ただひたすら行動によってのみ表され消費される代替物としての知性。そこには既に単一の意味さえ内包されず、使用によって唯一の価値を置くだけである。反射という概念へと縮小された知識系統は、終了の瞬間まで絶えることなく磨り潰されるだろう。音が聞こえたと直感する者は、瞬く間確かに存在した音という意味に対してそれ以上の価値を見出さない。
 しかし、かような怠惰を嫌って音を音たりと認め、そこから幾万の観察を経て状況状態現在時制への解を得ようとしたとて、そこからもたらされる情報量などたかが知れている。
 質、量、速度と密度と波形、拡散の度合いと指向性、そこから推察される発信源の位置とモノ。発生理由と発声者に対する推測に、発声者が知性動物と仮定した場合の動機と心理状態と、偶然性確率分布。物理主体の空気振動によるものか、それとも干渉系に大源が介在する魔術主体によるものか。更に、およそ考えられ考察に値し得る全ての情報と、付加価値に対して行われる見解の区分と比較。
 これらは何も特段の労力を費やしてまで思考すべきことではない。人間程度の知性を持つものならば、意識に上げることもなく自動で判断してしまうことだ。必要なもの以外は感知の埒外に放り投げる取捨選択という名の判別は、生物なら誰もが生まれ持った機能に過ぎない。だが、それを理性において制御できるという能力を保持している種がヒトであろう。

 ――――まあ、無駄というならそれこそ。どうでもよいことなのだが。

 一度軽く目を瞑り、一考にして結に満たない思索を切り捨てる。最中に在った内部ロゴスとカオスの対立に辟易しながらも、意識の末端において先に成立した音がしたという状況に対応した。
 このあたり、中々社会性を重んじていると思うのだが、私をよく知る他人に言わせれば私の礼節は最低限に近いらしい。形式ばかり整いすぎて中身が無いとは、彼女の言だ。
 しかし、それも当たり前である。他人に相対する際、元々尊しと思ってなどいない。形だけ見せればそれで満足するような、矮小で陳腐なプライドを振りかざす現行元老院などそれで十分だ。必要十分が正しさの証明だとするならば、これほどの正義もあるまい。だからその言葉はそれこそ今更であり、どうということでもない。
 そんな、私は私であるという当たり前の自己同一性に宙を空回っていた思考を不時着させながら、今回の『音がした』という状況に対する応答も常日頃と寸分違わず、およそ適合する最も比率の高い解答肢を選択し、実行した。すなわちそれは、私の部屋の、ドアの内側付近で、アレが、足を床に置いた、という状況に対する解答の明示である。
 言う。
「いささか遅すぎるのではありませんか。もう夜半も過ぎた」
 続く言葉で、ノックも欠かさずしてほしいものですがね、と加える。その発声に少しだけ遅れて後ろへと振り向いた。
 机に残った右腕で読み掛けの書物を閉じる。頭の片隅にはそれまで読んでいた、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいと語る司祭の言葉が聖秘蹟を成す鍵として記録されている。
「それは失礼。人でない者が人でなしを訪問するのだから、人が無い時間が好ましいかと思ったんだけどね。次からは君が亡くなる間際にでも訪ねることにするよ」
 こちらの揶揄を含んだ物言いに返されるのは、容易に陽性の皮肉を連想させる貼り付けの軽薄さだ。しかし、それがただ本心からだと知っている以上、不愉快にすら至らない。本人がその口から先ほど発した通り、アレは精神構造の細部から人間ではなかった。先の言葉と照らし合わせれば、なるほど、この隣人を自身と同じように愛するということはそのまま自身と同じものしか認める必要はなく、異であり端にも在らぬならば焼いてしまえば清浄であるという教典の暗部を思い出させる。そのための力が黙認されたところの祝福がこの道化にも与えられていることは、滑稽であるといえばその通りだろう。
 その無礼な上にあらかた枯渇している情をむやみやたらに振りまき散らす客を歓迎するために、来客用のランプと香に火を入れる。ランプへと立ち上がる際に、くたびれてしまった木製の椅子は怨嗟のような軋みを上げた。
「ああ、その香。できれば止めて欲しいんだけど。嫌いなんだよね、聖書臭くって」
「あいにくとこれしか無いものでね。前もって言ってくれれば、聖マタイの古着さえ用意したのですが。残念ですよ」
 灯したランプの明るさと香による神聖なる世界侵略によって、此処に根付いていた暗い静寂が焼かれていく。それに混じるように溜め息が聞こえたのは幻聴ではないだろう。いや、幻聴などと生易しいものでもあるまい。確としてあからさまという類の毒に分類されるそれは、明々白々な歪んだ喜色を含んでいる。意図的に聞かせ、情緒を波立たせるための息着きだ。そこに幾許かの滑稽さを感じ取るも、それさえアレの望んでいた反応ではないかとの考えに至り、意識に上げぬまま零れそうになっていた笑みを消した。
 先ほど呻きを上げた椅子へと戻る。反転させて腰掛け、眼鏡の硝子越しに仄赤く染まっていく白地の闇の向こうを見れば、思わず吐き気を催すほど美しい少年が居た。無垢なる猛毒を秘めたその麗しい顔には、一抹の不満が人形めいた可愛さと供に載っている。その表情に、完璧に過ぎる不釣合いさと理不尽さが想起され、「ならば冷笑こそ似合うだろうに。美学の乏しい」という落胆が浮かんだ。
 目前の、ヒトに符合するならばよほど不完全なそれは、そんなこちらの内心を見て取ったのか、或いはいつも通り何にも関心がないのか。絶妙の物悲しさをその表面に形作りながら囀る。
「そんなに僕が嫌いかい? バルダムヨォン」
 そのくだり。偽装もそこまで行けば魔王を騙して余りある。眼前に展開される極めて精巧な擬態に経験則からくる鬱陶しさが沸き上がるが、私はそのことをおくびにも現出させず、いっそ朗らかにまた爽やかに――――、
「ええ、もちろんですとも、ソロモン。――大嫌いだ」
 満面の笑顔で、そう答えた。 





 ロア短編 ――――対話





「はぁ。いつもながら思うよ。何故ナルバレックはこんな奴を気に入っているんだろう。だいたい酷いと思わないかい? いたいけな少年がその小さな胸を痛ませながら真摯に問うているんだよ? 『自分のことを嫌いだろうか、いや嫌わないでいて欲しい、好きだなんていわれなくっても良いんだ、ただ嫌われたくない』ってさ。それをただの一言、大嫌いだと斬り捨てる。およそ人間の出来ることじゃないね」
 肩をにわかに落とし両腕を大仰に天に掲げて、さも自分は傷つきました想いの全てを砕かれました踏みにじられましたと思しきジェスチャーを繰り広げる。巧妙なのはその赤い瞳に水滴さえ浮かべているところだ。いったい何処から用意したのか、ただの水ではありえない光り方をしている。
 この瞬間を一枚の絵画に閉じ込めるならば、さぞ好事家の喜びそうな美術作品に仕上がるだろう。題名は『天使の慟哭』か『捨てられた小犬』か。なんとも、くだらない。
「貴方に人間を語られるとは思いませんでした。それで? どうですか。同僚に絶対嫌悪を明示された気分は。私も何分人でなしでしてね。今後の参考にしたいのですが」
「――それ。それがつまらないんだよ、バルダムヨォン。君は賢すぎる。僕としてはね、もっと露骨で粘りつくような嫌悪や苛立たしさか、もしくはそれらを出さないために取り繕う一生懸命さが見たいのに。君ときたら適当に形態反射するだけだろう? 心が篭ってない。台無しだね」
 全く、本当にどうしてナルバレックはこんな奴が気に入っているんだろう、と続ける。最後の一言には私としても大いに賛成だが、それも含めてコレの語る全ての話題は余分と無駄が飽和量を越えて濃縮されているのだ。それらをただの怠惰な繰言に劣化させない話術と立ち回りはたいしたものだが、付き合っていては千年あってもまるで足りない。その間に月が落ちて王国が滅びるだろう。その嗜好と思考と愛憎の方向において、私とコレは悉くを対立させた存在であった。
 この在り方の相対を奇蹟と言えば、それこそ数千万に一つの希少さが計測されるに違いない。今度暇があれば、穴倉の隠者どもにその計算と方程式の導出を依頼してみるのも面白いかもしれない。見返りに何かを要求されればこの少年の皮を被った外道でも売り渡そうか――との考えに至ったが、それこそ無価値以外の何ものでもないことに気が付いた。思わず唾棄したくなったが、眼前に在るであろう欠片も歪んでいない完璧な笑顔を思い出して踏みとどまる。
 その一連に、得も謂われぬ滑稽さが胸中に浮いて出た。溜め息をつく価値も無い。
 仕方が無いので皮肉に口の端を歪めるふりだけして、実質的に益の無い会話を続けた。
「……なるほど。台無しですか。それは良かった。私と貴方との間に台無しと言える程度の関係性が築けることは此処に立証されたわけだ。なんとも素晴らしいことではありませんか? 零よりもよほど生産的だ」
「あはは――、そうだね。零、空っぽというのは始点も終点も存在しないということだ。始まってもいないのに終われるはずはないからね。なのに終わりへとばかり疾走して自分の立っている地点を顧みないのも人間だろう? 始まっていないことに気が付かないで君の嫌うところの無為無価値さえ認識できないなら、どれだけ知や識を宝物のように溜め込んでもごみくずと一緒。ならさ、それはすでに袋小路に嵌り込んでるんじゃないかな。先が無いのが判っていないほど浅はかな者も、先が無いのが判っていても走ることを辞めない愚かな者もいるみたいだけど。
 ――まあどちらにしろ、そんな奴らよりは。僕たちのほうが、よほど生産的だろうね」
 言って、目を細めながら少年の姿がクスリと笑う。
 微笑みの形を見せるその表現に恐れ入る。微笑という人類の持つおよそ最も友好的な交渉術がこれほどの悪意を内包できるものか、と。私も戯れにその形を表情に載せることはあるが、ここまで完璧にはできまい。この少年模型は人間の真似だけさせたなら、世界屈指のヒトガタだろう。
 いや、悪意というのも違うか。皮肉を送って皮肉が返ってきた以上、これは場を尊重した礼節の一端だ。挨拶といえばその通りであるし、談笑にも等しい。
「――ねぇ? そうでしょ? アカシャの蛇」
 まるでケラケラという音が聞こえてきそうな言い分。覗き込むかのように近づけられた顔の上では、一際赤い両目が嘲笑っている。それでも笑い声一つあげないところを見ると、どうやら本当に可笑しいらしい。今、コレの内側では、干からびて骨ばかりになった人間性がさぞや大きな声で笑っていることだろう。
 ランプの弱い火によって作られる足元の陰影が、それを象徴するかのようにぞわぞわと揺れた。
「道化も大変ですね、王冠」
「いやいやこれがそうでもない。楽しいよ。十万キロの腐砂の砂漠に水筒が一本と半分ってくらい楽しい。――良かったら君もどうだい?」
 そう。コレが私に向けた嘲笑の意味は自ずと知れた。
 コレは、――私の魔術を知っている。

 ◇ ◇ ◇

 ――魔術。
 私にとって道具に過ぎないそれは、しかし私の全てを顕していると言っても過言ではない。最果ての純粋さに魅せられ、そこをのみ目指して奔る私はその道程に魔術を選んだ。その選択に対して特に思うことは無い。これがこの脳と体にとって最適な手段であっただけだ。だが、その果てに私の原初が存在するのならば、それをして歩む道行きの悉くは正確に私を示すだろう。
 そう考えたならば、後は為すために必要なものを手に入れるだけだが、あいにく世は私を嫌っていたのだろう。いつの頃からかは判らないが、私が気付いた時点で世界に在った全ては私にとって意味が無かった。例えば、時計塔は阻害要因ばかりが顕著でメリットが無い。北海の錬金術には興味が無い。穴倉の武器庫は既に意味を失い汚濁と変わらない。残るのは聖堂だが、それも狂って腐った妄信に堕ちている。
 つまり、何も無い。
 だから、作り上げた。欲に塗れた大司教や信心と信仰の木偶と化した枢機卿に取り入り、そこで得た権能の全てと私が生まれながらに持っていた財貨の全てで。俗物と化したこの聖者を祭る閉鎖世界に。確固とした目的へとひたすらに純化する教えの室を。埋葬という名の力の十字架を。
 そうして作られ、集められた彼らは、神を崇めることが無い。力をこそ信望し、異端をこそ焼き尽くす。聖蹟をして、武装をして、魔術をして、何もかもを駆使して。それだけのために作られた、それだけの意義が唯一つ在る単構造の密室である。その絶対社会には無駄がなく、清浄だ。力の縦列においては下位の意思など無きに等しく、上位の思惑はどうでも良い。
 作り上げたのはそういう場所である。個は何処まで行っても純粋に個であり、関係性や連帯性などは考慮に値しない。故に、此処は個にとって非干渉の地であり、私は私の在り方に没入できる。
 また、此処はその存在そのものが、物理的な位置、社会的な位置、軍事バランスにおける位置、単純な力の水位、そのどれもでもって結界として機能し、他者の介入を拒絶する。内側からも外側からも接触点を満たされないならば、そこはそれだけで工房足りえるのだ。ただ在るだけで近づきたくなくなり、たとえ近づこうとしても決して近寄れない場。それが、その場所のその在り方が、私にとって最も都合が良い。そのように作り上げたのだ。
 それを以って成すのは神秘の深奥への探求。装飾的な言葉を駆使するならば、それはいかにも見果てぬ夢の地平であり、願い祈った理想郷への道のりだと言えるだろう。しかし、そんなことに意味は無い。私の中にある始まりの言葉へと歩くというだけなのに、華美で余分だらけな夢だの幻だのは必要ではないのだ。
 私の見据える先について、数多の先達が残した言葉には「未だ虚像さえ結ばぬこの先に一体何があるのか」とある。
 だが。
 ――そんな瑣末なことは火葬の焔にくべてしまおう。
 私は、ただ私の始めを見据えて歩むと決めている。迷う者の想いなど、解りたいとは思わない。
 唯一つ、為したいと思った。それで十分ではないか。
 ――其処で、私は私の最果てに辿り着けると確信していた。

 ◇ ◇ ◇

 埒も無い。久方ぶりに己のこれまでに思い耽ってみれば、そこにあったのは襤褸屑にまで劣化した愚かな楽観だった。何も有益なことなどありはしない。過去を顧みる者は、己に迷う者か、或いは己を偽る者だけだ。
 ――そのどちらでも無いというのに、かつての仮象を懐かしむのか。
 これではアレが笑うのも当然だ。私でさえ、笑ってしまいたくなるのだから。
 では、ついでだ。愚かであったかつての私に、今の私から嘲笑と憐憫を無知という名の真っ白なリボンで束ねて送ろう。添えるメッセージカードには心を込めて「死んでしまえ」と書き記そうか。
 なに、アレも彼女も私の言葉には心が篭ってないと言うのだ。今更呪詛を万言吐いたところで絵空事も良い所だろう。断頭台の広場で遊ぶ子供の数え歌のほうが、まだましだ。「もういいかい?」を繰り返せば、刃が落ちることもあるかもしれない。

 …………なるほど。どうやら私は、よほどあの失敗が許せないらしい。

 自虐などと、これこそ埒も無い。
「流石だねぇ、バルダムヨォン。僕を前にして呆けるのかい? ――ああそうか。蛇っていうくらいだから、やっぱり傲慢なんだろうね。それとも取るに足らない情熱の残り火に炙られていたのかな? はは、そんな劣情、蠅にも劣るね」
 未だ懐古のくだらなさに精神を引っ張られていると、顔のすぐ前からそんな声が飛んできた。集中力をそちらへ向ければ、どうやらアレが私を覗き込んでいたらしい。それほど多くの時間内側に没入していた記憶はないのだが、そのくらいも待てないのだろうか。存外コレは、自分で言うほど大らかではないらしい。それとも暇で暇で死にそうなのか。
「――ああ、これはすみません。わざと貴方を無視したわけではないのですよ」
 見れば目の前、私を覗き込んでいる綺麗な赤い両眼には、相変わらず張り付けの微笑みが浮かんでいる。色白い能面に二つの赤い光点が灯るようなそれは、されど輝くわけでも燃えるわけでもなかった。病的ににこやかな笑みは空恐ろしさか、もしくは知恵遅れを連想させるが、その持ち主である本人の性質を知っている以上、どちらも観測されることは無い。
 何かに例えるならばそう、あれはケタケタと笑い続ける兎の被り物を身に着けた三流サーカスのピエロによく似ている。白い顔に赤い目だ。滑稽にヒトの形の服を着こなし、派手なネクタイを締め、安っぽい金色の王冠をかぶり、けばけばしい指輪を幾つもつけて、おどけて慌てて転んでみせる道化である。しかしそのくせ、いつのまにか観客全員を手玉に取るような本物の奇術師だ。



 このサーカス、三流の所以は、本当なら見所のはずの演技が下手くそ揃いで、しかし道化師は一流というような、なんとも喜劇な連中だから。このままでは客には飽きられ、動物には愛想を付かされ、そしてピエロだけが人気を取るのでさらに滑稽さが増し、サーカス団そのものが立ち行かなくなるだろう。だからきっとそのうち、人殺しを見物させることになる。題して、『首狩り兎は血を吸うか』。
 経営が苦しくなった団長は渋面で決断をする。「ピエロよ。一番人気のあるお前を主役にプログラムを組もう。そうすれば、きっとお客様も満足してくださる。うちのサーカスの未来が掛かっているんだ。頼んだぞ」もちろんピエロの返事は "Yes." 二つ返事で「まかせてください!」だ。そして次の日からは、親であるサーカス自体を食いつぶしてしまうほどの演技力とカリスマ性で何もかもを化かし続け、他の団員たちは仕方なしにピエロの端役に回る。そうなれば客はたちどころに拍手を連発し、耳が痛くなるほどの歓声をあげるだろう。なにせピエロは一流だ。見せるショーの全ては筆舌し難いほど素晴らしく、妙技の合間にふと見せる微笑ましいミスプレイが客達を釘付けにする。
 ところが、ピエロの演技は失敗して笑われることが本命である。だからいつしか、ピエロと組みになった団員たちは失敗を連続することになる。中には危険なもの、致命的なものもあるだろう。しかし、観客は当然その失敗も一流ピエロの凝った演出だと思い込んでいるので、その失敗のたびにスタンディングオベーションだ。こうして三流サーカスの歯車は狂いだし、誰も気が付かないまま歯止めの効かないところまで走り続けていく。団員たちは狂った笑顔を浮かべながら血達磨になるまで失敗し続け、観客は踵まで血につかりながら大笑いして金を投げ、ピエロは一人舞台を支配し回し続ける。
 団員達はもうこのショーを止められない。何故なら観客が絶賛し、大金を落としていくから。
 観客達はもうこのショーを止められない。他のどんなところでも見られない最高で最低な、血と狂態の悦楽を知ったから。
 道化師はもうこのショーを止められない。最初から止めようなどとは思っていないし、これが彼にとっての大成功だから。
 だからもう、止まらない。失敗するのがピエロの仕事だ。笑い、笑われ、笑い続けて毎日毎日毎日毎日。
 繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返して止まらない。
 そうして挙句の果てには、団員たちは皆ピエロによって殺されるのだ。だが目の前の光景をショーだと思っている観客たちはそれも演技だと思い、ひたすらに笑い転げる。「はは、あのナイフ、人にささってるよ! まるでハリネズミじゃないか」「あっちゃー、獣使いが獣に喰われてらぁ」「おいおい空中ブランコじゃないのかよ。落ちてばかりで、床が真っ赤だ!」「あははは、うまいねー面白いねー、このサーカス。みんな迫真の演技だっ!!」そうしてピエロは一人最後まで演技をし続け、大喝采を浴びながら、全てを騙してのけるのだろう。
 後には何も残らない。失敗するのがピエロの仕事。団員は演技に失敗し、団長は経営に失敗し、観客は精神を失調し、皆が皆価値観を破壊され、最後までピエロとともに大笑いしながら死んでいく。
 そう、後には何も残らない。サーカスにも、観客にも、そしておそらくピエロにも。
 道化とは、騙して化かして笑われるものである。だからピエロは最後まで、自分自身さえも騙して道化を演じきるだろう。終着にはきっと、自分で自分に贈る歪な笑顔が待っている。「ボクの舞台、楽しんでくれたかな? うんうん、皆大満足みたいだねっ! なんて楽しそうな顔をして寝ているんだろう。だけど、こんなところで眠るなんて行儀が悪いなぁ。仕方ない、ボクが皆を送ってあげよう! さんにーいちで皆おうちのベッドの上さ。ピーターパンも真っ青の大マジック! いくよー、ハイ、サン、ニー、イチ、どろん! ……あれれー、また失敗しちゃったあ。皆消えちゃったよー。でもまあいいか、此処は綺麗になったしね! あははは――――」誰にも聞かれない長口上と、誰にも見られない大魔術を道化として完璧に演じきり、最期まで笑って消えていく。
 ……或いは幸せなのかもしれないが、なんとも失笑ものである。
 いや、これが世界の終局縮図だとしたら、この壊れた現世の結末としてなんとふさわしい姿だろうか。



 脳裏に描いたあまりにもアレらしい末路にクスリと一つ蔑笑をくれて、私は僅かに後ろに身体を傾けた。ふいに体重をかけられた木製の机は小さくきしりと文句をつく。ついつい漏れた笑いにアレが訝しげな表情をみせるが私はそこになんら頓着せず、未だ私を見続ける赤い視線から遠ざかった。続く動きで眼鏡を少し上げる。
「失礼。――――ええ、わざとではないのです。ただ、私にとっては貴方の優先度がそれなりに低いもので」
「ちぇ。まったく正直だね、君は。もっと気の利いた科白はないのかい? 例えば、『そんなに見つめられると穴が開いて血が噴出すでしょう? そんなに貴方は私の血を浴びたいのですか?』とかさ。もちろん僕は『ああ、浴びるほど飲めるなんて最高だね』と応えるよ?」
 皮肉と素直さを混ぜて言う私の前で、アレはなにやら舌打ちをしながらいかにも吸血鬼らしいことを言う。そして見せ付けるように、含んだ笑みをわざと零しながら、覗き込むための前傾姿勢から元の立ち位置に戻った。その吸血鬼らしさがわざとらしすぎて笑えない。戻る際の動き方がいちいち大仰なのも今に始まったことではないが。
「貴方が? それはまた新手のジョークか何かですか。混沌と違って貴方は品質にうるさいでしょう? それとも私の味は最古の死徒のお墨付きですか? 光栄ですねそれは。なんとも涙が出そうだ。張りぼての美観と味覚しか持ち合わせていない王侯貴族が、身勝手に定める星がいくつだのなんだのの店格よりも、よほど頼もしい」
「まあね。君が望むなら星五つの代わりに杯を五つあげよう。何事も趣きが肝心だからね。上等なワインを飲むのにコップじゃいけない。残念なことにかの聖者の血を受けたものは手元に無いけれど、それなりのものはそろってるよ」
「玩具集めですか。貴方にしては存外まともな趣味を持っていると思っていたのですが、やはり短絡な興を続けているのですね。……いっそ冷めませんか。繰り返しすぎて」
「それはもう。だってボクは教会一の粋人で風流人だし。骨董品の収集も、それらにいつの間にか飽きて倉の奥に放り投げるのも、謂わば紳士の嗜みじゃないか。大英博物館に行ってみなよ。似たような紳士が有象無象と群れてるからさ。ウィーアー、ブリティッシュ、ジェントルメーンってねー、あっはは――」
 軽快なステップを三つと最敬礼を一つ。先ほどまでとはうって変わっての気品ある立ち振る舞い。いつの間にかタキシードまで着ているのだから侮れない。しかし、数秒と経たないうちに礼を執ったままのコレから笑い声が上がった。そのわりに身体は紳士然として微動だにしない。凍ったように動かぬまま、不釣合いの不快さが室内に増殖していく。その様は、薇が切れて口が半開きのまま止まってしまったコッペリアとそれを仕舞う棺の内側に似て、空虚な可笑しさが感じられる。
 それとともに耳に入るのは、ランプの芯の焼ける音が歪な笑声に重った、脳を削るかのような和音。奏でるほどに神経を逆撫でし、それでも飽き足らず鑢を掛けてくるかの様。ひどく、耳障りだ。見れば足元、アレの影が五つに増えている。
 そんな不協と不快による凍結不動の空間内で、アレの影法師だけは腹を抱えて笑い転げていた。
 ……いちいち、大げさだ。
「――――、…………、……。……紳士、ですか。――いえ、楽しそうで結構。
 たしかに、彼らの行き過ぎた保守主義よりもよほどましですか。まあ、貴方は紳士や粋人というよりも遊び人のほうが似合いですが――ああ、なるほど。第八秘蹟室は貴方の子飼いではなく、人形でしたか」
 そういうと、眼前の凝結空間はくるりという擬音を残して元に戻った。舞台を整えるのも早ければ、片付けるのも早い。さすが、手馴れている。
「んー? あっちはそうでもないけど。彼らは彼らなりに上手くやってるよ。みんな一生懸命働いてるじゃないか。父と子と聖霊の御名においてひたすら爆発物や危険物を管理・封印、と。敬虔で信心深く、聖堂教会の誇る騎士団の次に働き者揃いだよ。
 ――ただ。その行動や思考の起点がいつの間にかすりかわってることも、あるけどね?」
「趣味の悪い。玩具だけで満足していなさい、少年。人形遊びは女の子のお遊戯ですよ?」
「いいじゃない、これが結構捨てたものじゃないんだよ。皆よく反応してくれるし。君みたいに心が篭ってないことはないからね。心の底から笑ったり憎んだり、生きたり死んだりしてくれる」
 美しいさ、なんとも醜くて、とまるで万華鏡を眺めるかのように陶とした眼をしてみせる。しかし、肝心の芯が冷たい光を湛えていては、それも無駄だろう。その姿が、どこか遊びに熱中できずに駄々をこねている猫に見えた。……その猫も、おそらくチェシャ猫だったりするのだろう。
「――まるで子供だ、ソロモン。それがふりだというのもどこまでが本当なのか。案外、半分は本音なのではありませんか? それとも、ふりだということさえ、己を騙すための嘘ですか?」
「失礼だなぁ、バルダムヨォン。君こそ人でなしだというなら僕の趣味にケチをつけないでくれよ」
 いささかむっとした仕草で眉をひそめる少年の形。そういえば、人間の子供がする身振りや手振りはこのようなものではなかったか。そこだけ見るならばまるで子供なのではなく、子供そのものだ。内面の毒々しさと乾燥具合が純真無垢の代名詞たる子供といっそ好対照なのは、アレなりの愛嬌のつもりなのだろう。
「だいたいボクのことを子供だって言うけどね。君は『子供』をどう定義してるんだい? 純真だの無垢だの、そんなもんじゃないだろう?」
「ええ、もちろん。子供とは、ひたすら貪欲で、利己的で、冷徹で、無力のくせに大仰に周囲に波紋を起こし、泣いて喚いて笑い転げる者のことですよ、ソロモン。ただ、純真も無垢も正しく子供を指し示す言葉ですがね。共通するのは、周囲を顧みないことと世界の中心が常に己であることです」
 純真とは、無色の毒酒だ。思わず飲み干してしまいたくなる甘い匂いと優しい味の、致死性に富んだ猛毒である。また、無垢とは、綺麗なものしか映さない鏡である。見ているとあまりにも綺麗で眩しすぎて、砕き割りたくなる明鏡だ。どちらも、既に成立している存在にシンプルな美しさを思い知らせ、そのまま自壊させてしまう。意図的であろうとなかろうと。
 例えば、世界が自分にとって都合よくなければ許せず、また都合よくなるように喚き散らして周囲を動かしてしまう者。例えば、単純な好悪で正義を決定し、その正しさを以って笑顔で他者を潰していく者。また例えば、己の価値観を肯定し、変化できないために、周りを変えてしまおうとする者。程度の差はあれ、全て一律「純真」で「無垢」だろう。
 ただし、本当に子供ならば、それは成長する。
 しかし、「純真無垢」がいつまで経っても不断に連続するなら、要するにいつまで経っても真っ白なだけの停滞点であり、進歩の対義語だ。停滞と、それに伴う腐敗。それはただの生き損ないであり、死に損ないにも成れない者だろう。
「そういう意味なら確かにボクは子供だろうね。ボクはボクだし、ボク以外ではない。でもね、バルダムヨォン。ボクはほら、ピーターパンだから。そこらへんの秤にかけてわかったような気になっちゃいけないよ?」
「ええ、その言葉がある程度以上ブラフだということも含めて貴方は侮れませんよ、ソロモン。確かに子供ほど単純ではないでしょうが、そもそも貴方への理解不理解は意味が無い。初めから理解できるものとは思っていませんし、今更不理解だと思い悩むこともありませんよ。そして私には、同僚との付き合い程度にしか貴方に興味が無い。……ああ、今度一緒にワインでもどうです? フランスのほうに良いものがありましてね。もちろん、白ですが」
 そう言ってわざとらしくさも会社の同僚然としたお決まりの文句を振ってやると、アレは驚いたように目を丸くしてひとしきり笑った後、拗ねと呆れを交えて言葉を返してきた。
「……ったく、つれないなぁ。その利己偏重主義、ボクなんかよりも君のほうがよっぽど子供じゃないか。もうちょっと場を尊重しようとは思わないのかい?」
「――――ええ、あいにく。羨ましいですか、ソロモン」
「んー、君がボクを羨む程度には」
「そうですか。全く羨ましくないと?」
「君がそう思うなら、そうなんだろうね?」
「ええ、そうですとも」
「ああ、そうだろうね」
 クツクツ、と。そうして溢れかえるかの繰言は際限なく泥と化し。
 私たちは要らなくなった宝物を見せ合うように、

 ――お互い。鏡のように、嗤った。



 さて、いつまでもこうして探り合いめいたことをしながらじゃれあっていても始まらないし、終わらない。だから始めて、終わらせよう。
 まず、アレは何故此処に居るのか。
「それで、ソロモン。貴方は何故――」
「あー、それ。さっきから言おうと思ってたんだけどさ。止めて欲しいんだよね」
 言う寸前で遮られる。……なるほど、さすが道化。どうすれば人が不快になるか心得ているらしい。
 しかし、止めて欲しいとはなんのことだ。まさか、私が此処にいることをやめて欲しいということでもあるまい。もしそうならば、明日は私かコレの葬式ということになる。彼女が弔ってくれればの話だが。
「――ほう。何を、ですか? いったい何を『やめて欲しい』のです、ソロモン」
「だからそれさ。そのソロモンっての。ボクはメレムだよ。そのソロモンというのはただの記号じゃないか。人権も人格もあったものじゃない。いつから君はそんなに鬼種差別をするようになったんだい?」
「……はあ。そんなことですか。別にどちらでも良いでしょう? メレムだろうとソロモンだろうと、物理界に存在する肉が確固としてある以上、真名如何でその構成要素を左右されるほど脆弱でもないでしょうに。まあその分、ケテルまでしか到達できずに不自由しているとは思いますが」
「そんなことじゃないだろう、バルダムヨォン。ソロモンって名前が第六と中途半端な関わり方をしてて嫌なんだよ、ボクは。かつてその名の王君は七十と二つの柱を擁したって言うじゃないか。判るかい? 七十ニだよ? 聖なる七十ニの数字と、それが反転した第六要素が七十ニだ。
 ――――その程度で。その程度で、屑みたいな国作って満足してた裸の王様と一緒にされるのは嫌なんだよ。
 あんなボウヤと同一視されるのは堪らない。やるならせめて奈落の門を開錠してみせろっていうんだ。そうすれば数だけで数百万は違う」
 莫迦なことを言う。もしあの牢獄が開放されようものなら、真性悪魔がこの地上を埋め尽くすだろう。そうなれば国も何も無い。
 自らに御せるだけのものを最も効率的に使うのが人間の智慧である。限界を見誤ると待っているのは享楽なる絶望か、はたまた媚悦なる発狂だけだ。そのことを考えれば、かの王はそれこそ自らの才能と器の上限を非常に的確に掴んだ第一人者と言えるだろう。人間として実に正しい。――ああ、なるほど。だから、アレはそれほど嫌悪するのか。人間として正しいということは、ツマラナイということだ。現実と効率のみを求めて、快楽も悦楽もその果ての孤独も知らない小僧などと自分を一緒にされるのは吐き気がするほど嫌なのだろう。そう、私が人でなしなのと同様に、アレも人でないのだったな。
「……まあ。貴方が地獄に落ちようが天獄から堕ちようが知った事ではありませんが。珍しいですね、ソロモン。――ああそう、メレムでしたね。ええ、メレム。珍しいですよ、こんなことは」
「ん? こんなことって?」
 ソロモンと呼ばれて不愉快な顔を作っていた目の前の少年死徒は、私の含んだような物言いにきょとんとした表情をしてみせた。何が珍しいのかわからないからなのか、それとも何かが珍しいと私がコレに向かって言うこと自体が不理解なのか、外見相応の愛くるしい相好でクエスチョンマークを浮かべている少年の形をした道化の内心は、相変わらず判然としない。が、それでも興味を引きはしたのだろう。
「こんなことってなにさ」
 と、しきりに聞いてくる。私は、その態度に対して迎撃するかのようににやりと口の端を歪め、
「貴方が白き姫君のこと以外でその枯渇寸前の乏しい感情を顕にすることが、ですよ。メレム・ソロモン?」
 言葉の弾丸を、数少ないコレの急所に撃ち込んだ。
「――うぐっ」
 流石にコレもそんなことを言われるとは思ってなかったのか、百年に一度聞けるかどうかというような面白い呻き声を上げた。
 白き姫君。アルクェイド・ブリュンスタッド。それは真祖たちが造り上げた最高傑作であり、彼らの王の器だ。魔王と化した堕ちた真祖の処刑人として機能し、果ては朱い月を降ろすのだと聞いている。
 そんな生物兵器に、その外見さながらの純情を向けているのが、先ほど目の前で珍妙な声を発したこの少年死徒だ。いくら齢を重ねても、この情動だけは変わらないというのだから、なんとも一途なものだといえる。いや、そこだけが変化せず、停滞しているのだから、そのことこそが何より異常なのだが。
「ひ、姫君のことは関係ないだろっ!? 第一、そんなことを君のような永遠狂いに言われたくないねっ!」
「おや、これはご挨拶ですね。私が私の目的に執着していることと、貴方が貴方の好意に執着していることのどこが違うのです。同じ穴のムジナでしょうに」
「だー、もうっ、全然違うさっ! 僕はね、ファンなんだよ彼女の。別に叶う叶わないなんてどうだっていいんだ。僕が彼女に好意を持っているってこと、それだけが重要なんだよ。君のは目的こそが全てだろ? 野望も希望も叶わなければ意味が無いんだ。ほら、全然違うじゃないか」
「なるほど、ご尤も。それで? 質問の答えをまだ頂いてませんが?」
「はあ!? 何さ、質問って――――あ。ああ、あれね。『ソロモン』のことか」
 未だ興奮の渦中に居たかに見えたが、流石に冷めてきたのか、質問という言葉で落ち着きを取り戻す異常純情死徒。判らないものだ。好悪というある種動物的な感情だけでああも変わるものなのか。
「ええ、そうです。何故、あれほど嫌うのか。貴方が、かつて真祖に名付けられた名だからですか? ――いや、そんなことではないでしょう。貴方のような既に人間を辞めたモノが、そんなさも人間めいた感傷に囚われるわけがない。
 では、かの王が貴方の言うような矮小なスケールに納まって満足しているような愚昧だからですか? ――いや、これも違う。所詮貴方にとっては些事に過ぎない。では、何なんでしょうね?」
「いや別に? 言ったとおりさ。自分が道化だって判らないで道化を演じて幕を下ろし、あまつさえそれに満足するような輩と一緒にされたくないだけ。僕はたしかに道化師だけどね。それは僕自身が道化師であることを好んでやっているのさ。――道化ではなくて、道化師。わかるかい?」
「……なるほど。実に貴方らしい回答だ。望まずに愚者たることと、望んで愚者を演じることの差に拘りがあるのですね。結果はまるで変わらないというのに」
「それが僕と君の違いだよ。さっきから全て、この一点が違うだろう? 行為そのものに享楽を求め、故に結果も悦楽の裡にあるのが僕。行為そのものは全て目的へと繋がる道程でしかなく、望みの実現にこそ自らの意義を求めるのが君。君の言うようにたとえ行き着く先は同じでも、はは、まるで正反対だね」
 その通りだ。故にどれだけ話しても、どれだけ語っても、私とコレでは相容れない。そう、例えば先の姫君のことでさえ。
「そうですね。貴方は私を理解できないだろうし、私は貴方を理解できないでしょう。正反対という表現は、非常に正しい」
 アルクェイド・ブリュンスタッドへの関わり方という事項。
 コレは、コレの好意のみで、姫君との関係を形作っている。その先など求めないし、これまでの好意が姫君にとってどうであったかということにも興味はないのだ。この少年の形をした道化の王冠は、ただ今このとき、確かに自らが姫君を好んでいるという事実があれば、その他のことはどうでもいいのである。姫君に好かれたなら好かれたで喜ぶだろうし、嫌われたら嫌われたで悲しむだろうが、そんなことは二の次でしかない。不変に、ただ只管連綿と、呪いのように繋がり続けるアレの好意が、アレから姫君に向けた好意さえ失わなければ、それでいい、ということなのである。――流石、自ら道化師を名乗るだけある。これは確かに滑稽極まりない。少なくとも私のような者には、その行為そのものからして理解しようがない。
 そして私は、アレとは全く逆に――――

「さて、ミハイル・ロア・バルダムヨォン。丁度姫君の話題も出たことだし、そろそろ、今日君を訪ねた本当の理由を話しておこうと思うんだけど、いいかい?」

 ――唐突に。室内の空気が干からびたかの錯覚を覚えた。
「――――っ、なに?」
 その変化に一瞬ついていけず、眉をひそめる。
 正面を見れば、少年のカタチが、アカイ眼で私を見詰めている。
 ソレはただ、世界に立っているだけだ。ランプに照らされ、描き出される五つの影法師を足元に現し、人でないモノがヒトの如く振舞う。なのに、どこからか。

 ――幽かに。獣の息遣いが四つ、聞こえる。
 その幻聴に耳を澄ます。
 アカイ眼が私を見詰める。
 ランプの灯は凍結したかのように不動。光量だけが増減を繰り返し、それに描き出される室内の影絵はその姿を明滅させながらヒトとケモノを行ったり来たりしている。

 ――ハァ、ハ、ハ、と。魔物のように喘いでいる。
 五感が正しく働かない。酷く汚い酩酊感。
 アカイ眼が。
 少年のカタチをしたソレの手足が徐々にその色を欠落させていく。世界が徐々に正気を失っていく。喰われていく。

 ――ケモノを孕み。獣臭に溺れながら。世界が回る。
 狂った世界に目が眩む。
 アカイ、眼、が、、、
 正気が狂気に食まれていく。夢中(髑髏)になって石榴(臓物)を潰す。ぶどう酒(理性)が杯(奈落)に飲み干される。病的に赤い蛇苺(血肉)の花が咲き乱れる(腐って落ちる)。鯨(魔獣)が、大口(冥府)を開けて待っている。
(…………っ!! やってくれる、ソロモン!)
 そこまできてやっと危機感が点灯しだし、半ば冒されて鈍重になった脳を無理矢理フル回転させ、必死になって現状を解析し理解を促す。
 気付けばそこは最早異界。アレのアカイ魔眼が私に見せるのは、腐った悦楽と甘美な恐怖。危機感の遅れさえアレの業だろう。本当に有能なモノは相手に気付かれぬうちに全てを済ます。ギシリと音がするほど強く、歯を噛んだ。
 冒されてしまった脳内は既に境界さえ曖昧になった正気と狂気の狭間を揺蕩い。
 私は、今の壊れかけの私とこの空間に対して最大限の抵抗を試みる。
(……何か仕掛けてくるとは思っていたが。私を見誤ったな、王冠)
 口の中に鉄錆の味が広がる。それは血液であり、痛覚であり、昏病む理性の現実回帰。泥へと崩れかけた思考に火柱を突き刺す。
 それによって加速するのは、激発される意識と爆縮される意志。魔眼に魅せられ焦点を結ばなかった両の目に、悪魔を射殺す眼光が宿る。瞬間冷却された脳髄から限界まで濃度を上げた殺意が迸り、ヤツのアカイ眼と相克しうる刃と化す。
 その基盤となるのは、己に在った唯一のモノ。

 ――我が身に残った一滴の望み。発生してこれまで在り続けた最高の意志。

 それは私にある唯一にして、原初の心。一番初めに在ったモノ。
 アレはそれを永遠狂いと蔑むが、ならば貴様は思い知るがいい。
 術の全ては彼方へと赴くために。しかし、そこまでになんらかの障害があるのなら、その悉くを捻り潰そう。

 ――私は、私がどこまでも私であることを、傍らに座して見続けると。そう、決めてある。

 アレのアカイ眼が爛々と輝く。偉大なる四つのケモノが王冠に従い咆哮を上げる。底無しのアビスが門を開いて手招きしている。
 だが、それは須らくイメージだ。本当のことになる寸前まで凝縮されていようが、現実を冒すほどに高められていようが、未だ実数とならぬ幻に過ぎない。折れてはならない。屈してはならない。呑まれてはならない。もしも、意志が砕けたなら、その瞬間にそれらは私という世界(精神)の中で現実を塗り潰しながら具現してしまう。
 依然侵食してくるイメージは、あたかも暴風のように私の世界(精神)を圧倒する。その底無しの圧力に、私はどこか冷静に王冠というイキモノの凄絶さを視認しながら、私の深奥に息づく果てずのイシに光を当てた。
「Ab, Ben ruach aCadesch(父と子と聖霊よ)――その尊き御名において、私が告げる――」
 イシを殺すもの。それはイシに他ならない。


 ――信念などではない。ただ最初に、永遠を識った。それだけだ。


 世界(精神)の全てが壊れるその前に。
 奈落へと呑まれる前に、そのイシをして聖別の秘蹟を為し、惑乱の異界を撃滅する……っ!

「――――恐れることなかれ。
 私は始めである。私は終わりである。私は生ある者である。
 森羅を見よ。万象を見よ。星を見よ。世界を見よ。私が見る全てを普く見よ。世々限りなく生者である」


 洗礼詠唱。聖典朗詠。
 謳い上げるは、聖者の預言。事実の記憶。真実の断片。
 場に満ちる清浄なる気配は、咎なく、罪なく、穢れない、無色の要素。空。
 意識が先鋭化する。世界に刻み込まれた魔術基盤が唸りを上げて起動する。身体隅々まで走破する魔術回路がそれに同調するかのように稼動率を上げる。
 イシが、高次へとシフトする。

「――――留まることなかれ。
 傷つきし者よ。飢える者よ。病める者よ。死する者よ。私は死するが生きる者なれば、その者たちよ、永久に安らかなれ。
 眼前に招かれたる者、臥して従いし者、倒れし者、謳えよ、祈れよ、委ねよ。
 諸人よ。私は死と黄泉との鍵を持っている」


 それは、かつて託されし聖者が見たある者を指し示す。
 父と子と聖霊。今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者。主。光。――これは、その者より選ばれし者が託され、残した預かりの言の葉。
 聖者により記された事実連鎖の終末確定要素。聖堂をして、人々により、世界へと延々と刻み続けられた聖なる書物の終わりの章。腐り狂いながらも世に迷う魂を無に還す詩。黙すことにより虚言を退け、示すことにより幻惑を退け、録すことにより欺瞞を退け、ただ唯一絶対の真実のみを宣告する神の託宣。
 ――――聖ヨハネの黙示録。
 其を以って、あらゆる魔を撃滅させる摂理の鍵と為す。
「……へぇ、それを。――流石に対応が早いな」
 その言霊の連なりを聞いて、私を視ていたアカイ眼がすいと細まる。それとともに魔眼が更にその稼働率を引き上げるが、その魔眼の侵食を塗り潰すかの勢いで聖堂の奥儀が世界(精神)を満たす。
 一進一退を繰り返すのは、世界を支配せんとするアカイロ(魔眼)と世界を祝福せんとするアオイロ(聖詩)の攻防。
 それは、イシとイシの鬩ぎ合い。火花こそ散らぬが、激震を伴う幻想の激突だ。

「――――七つの星は我が右手に。
 其処に在れ。其処を見よ。貴方の見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを。真実を、書き留めよ。
 七つの燭台に火を灯せ。四大の獣は崇め讃えよ。二十四の長は平伏すがよい。
 羊には七つを。力と、富と、智慧と、権勢と、誉と、栄光と、賛美とを」


 繰り返される聖者の言霊と魔の視線の喰らい合い。既に臨界に等しい回路は周囲を巻き込みながら慟哭を上げる。帯電するかの如く密度を上げる互いの魔力はのたうつ蛇のような紫電を走らせながら、更なる激突に荒れ狂う。
 躯の感覚などとうの昔に消え果てた。認識できるのは己と相手、そしてそれぞれの視線が互いを喰らい尽くそうとすることのみ。
 そこに新たに生じる境界線。それは、互いの力が鬩ぎ合うからこそ生まれるデッドライン。その線を認識したのは果たしてどちらが先か。
 閃きにさえ満たぬ刹那、視線(イシ)の交錯は一瞬。針すら通らぬ電光の機に、先を制す形で魔術回路を過剰稼動、あらん限りの魔力を叩き込む。
 絶壁の如く迫り来る異界の魔風を、真威の雷光を以って討ち貫き凌駕する――――!
「……ち、何も用意してないわりに、やる……っ!」
 均衡を押し戻されそうになり、堪らず漏れ出た王冠の焦れに、にやりと口の端を歪めて侮蔑を送り。
 そして私は、最後の一節を詠み徹す。

「――――来たれ。
 白い征圧を見届けよ。赤い戦争を見届けよ。黒い飢餓を見届けよ。青白い死病を見届けよ。
 笛がなり、雷が叫び、四大の縛鎖が事切れるまで、四馬の騎士が駆け抜ける末を見届けよ。
 託された書は口に甘く、心に苦い。響け、七つの角笛。此処に事は成就した。
 ――――裁きはここに。浄罪の火よ、普く照らせ。受肉した私が誓う」


 胸の前に腕を上げ、最後の聖句を以って――――

「――――主よ、憐れみ給え(キリエ、エレイソン)」

 黙示録の一節を完成させ、十字を切る……っ!
「……っ、あつっ!」
 同時、ビシャリ、という空間を捻じ切るような音とともに魅了の魔眼が敗退する。ただ真実のみを預言された言霊によって、偽りの世界が崩れていく。――強制的無力化。聖詩が為った此処は真実だけしか許されぬ場。世界に刻まれた大儀式の一部を使用し、幻想を為す魔の気配を須らく遮断した。そのついでに、ヤツの右足と左腕の魔獣を真実という圧力で捻り潰し、半壊させておいた。
 しばらく苦痛に顔を顰めていた少年死徒は、ちぇっ、と悪態をついて口の端をにやりと歪めた。
 さっきまで異常だった世界は、まるでそれが幻だったかのように元の姿へと戻っている。
 ……いや、本当は何も変わらない。何も変わらないのに、そこある空気を空間ごと根こそぎ飲み干されたかのように、呼吸が出来ず、正気を失い、恐怖の裡に狂いもがくという暗示が私の目を介して脳へ浸透していったのだ。
 アレにとっては戯れに過ぎない眼の力。それに拮抗するだけで、人では儀式を一つ必要とする。キャンセルには成功したものの、先の攻防は次元の違いを見せ付けられる形となった。壊した獣どもも、どうせ半日も経たぬうちに復元されてしまうだろう。英雄にすら届かぬ人の身では、どうあがいてもアレには届かない。かつて神に最も近かったモノの成れの果てが、今私の目の前で左腕をさすりながら「あーあ、もう少しだったのになぁ、そのほうが話も早いのに」などとのたまっている王冠と呼ばれるモノだ。
 それにしても、この道化め。やはり、何もせず話だけのつもりではなかったか。
「…………メレム。やっと話す気になったかと思えば、同僚に向かって幻惑ですか。――いつまで待たせる気です? それとも、本当にここで殺し合いますか?」
「冗談だよ冗談。ちょっとしたお茶目じゃないか。君だったらあれくらいでどうこうならないだろ? それを殺し合うだなんて。ああ、恐ろしい」
 そう言ってアレは両の腕で細身の身体を掻き抱き、小馬鹿にするようにブルブルと震えるジェスチャーをする。そして次には腕を開いて肩から力を抜き、頭を振って、あーあ、まったく短気だなぁ、と続けた。
 私はそれを見て、いつものように嘆息する。正直、付き合っていられない。
 魔眼が破られた後の追撃がないことを確認して、私は身体の力を抜いた。もたれかかった椅子の背が律儀に応答し、キシリと鳴った。
「……それで、メレム。貴方はなんのために此処に来たのですか? ああいや、貴方のことだ。私や貴方にとって有益なことでないのは承知していますよ、もちろん。それよりも、貴方がわざわざあのような前振りを入れて私から何か引き出そうとしていることのほうに興味がありましてね?」
「ん? なんでそんなこと聞くのさ、バルダムヨォン。もう判っているのにそうやってわざわざ物腰穏やかに人に物を尋ねるのって、君の癖みたいなものだとおもうけどさ、あんまり良くないよ? ほら、勘違いされるじゃないか。君が良い人だって」
「ほう。たしかにそれは困りますね。私は善人ではない。まして聖人や君子でもない。だからといって貴方ほど外道でもありませんがね。――さて、では話の続きです。単刀直入に聞きましょう。今回の貴方の訪問、それは、姫君、アルクェイド・ブリュンスタッドについてですね?」
「ははは、バルダムヨォン。一つ言葉が抜けているよ。判ってるんだろう? 意地が悪いな。そんなに僕の口から言わせたいのかい? ああ、いいとも。では言ってしまうけどね。――僕が訪ねたのは、『君と』姫君についてさ。もっと言えば、君が、姫君を使って何をするのかを聞いておきたくてね」
「……ふむ」
 やはり、と言ったほうが正しいだろうか。いや、当然、とした方が適切だろう。アレに何がしかの危惧や心配があるとしたら、それは総てかの姫君に関することだ。
 なるほど。アレはどこからか、私が私のために姫君を用いるという噂話でも耳に挟んだのだろう。まあ、そんなことをアレに仄めかすような者は、おそらくナルバレック、彼女しかいないのだが。私とアレの双方に接点があり、且つ、私の魔術と目的を知っている者といったら、彼女くらいしか思いつかない。
「ナルバレックにも困ったものですね。私としてはことを荒立てなくなかったので、彼女には口を閉ざすように頼んでおいたのですが。はぁ、あれは生来のサディストでした。これは私のミスでしょう。私と貴方のいさかいにほくそえんでいる彼女が目に浮かびますよ」
「まあそのおかげで僕は今此処にいるわけだけど。で、どうなんだい? 君のことだから、君の目的を達成するために姫君を利用しようというのだろうけれど」
 この話をし始めて以来、口調こそ常のアレとなんら変わる事はないが、言外のプレッシャーは相当なものになっている。先ほど眼を使ったのも、私から直接それを聞き出すためだったのだろう。話も早いのに、とはつまりそういうことだ。無害なら、そのまま放置。愉快でも、そのまま放置。だが姫君とアレ双方にとって、私の行動が実害だけで何の面白みもなかった場合、そのまま殺してしまう心算だったということである。
 その点においてメレム・ソロモンは、私のことを正しく理解している。私は私のためにしか動かないし、その行動の行き着く先は全て私の目的のためである。故に、アレが好む姫君が私によって道具のように扱われることが気に掛かった。――アレのこの部分だけは数百年生きた今でも人間らしい。
 だが、私も莫迦ではない。姫君を利用することは私の目的達成において絶対条件だが、だからといって王冠を放置したまま柔らかい脇腹をブスリというのは本末転倒もいいところだ。
 故に、次に発するのは、
「ええ、その通りですメレム。私は、私のために姫君を利用する。具体的には――――私は、彼女の死徒となる」
 私にとってはただの通り道であり、アレにとっては決定的な意味を含む言葉。
 それを聞いた王冠の目がまたアカイ光を灯してギラリとざわめく。
「へえ、バルダムヨォン。僕の前でそんなことを言うのか。それが僕にとってどれほどの言葉か判らない君ではないだろう。君は今、自分が『彼女の初めてになる』と、そう言ったんだ」
「ええ、判っていますともメレム・ソロモン。これは私にとってはただの通過点であり未来の事実。そして貴方にとっては――」

「――ああ、僕にとっては。どうだと言うんだい、ミハイル・ロア・バルダムヨォン」

 ギシリと、先ほど聖書によって聖別されたはずの空間が音を立てる。それは、一切の魔を許すまじとするはずの結界が、アレの一息で崩壊寸前まで押しやられる未来の暗示。アレが今ここで本気になれば、こんな結界など私もろとも塵も残さず裂き砕けるのが容易に想像できる。
 私の眼前、たった三歩離れた場所にいる王冠の眼には、私の無体を許容せぬという絶対零度の意志が覗く。少年のカタチの周囲、その空間が超高水準の魔力の高まりに影響され、光すら逃がさぬ圧縮魔力の渦と化す。それは聖書に描かれた火と硫黄の海すら生温い。ケテルの暴君がその極限をして、此処を地獄へと貶めるという前兆だ。この先、私の言動如何によっては、アレは即座に私を消し潰すだろう。この聖堂教会という組織もろともに。
 緊迫感が肌を灼く。ともすればその威圧だけで命の灯を消されてしまいかねない。
 そんな中、私はさも平然といった風を装いながら溜め息をつき、続く動作で一枚のカードを取り出した。

 ――Number 9. HERMIT - Reverse.

 ヘブライ語ではヨドと等価に置かれ『手』を表す、『隠者』の大アルカナ。逆位置にされた其の意は、隠す者。秘密。隠された一手。
 私の普段使う魔術からは思いも拠らないその限定礼装を見せられ、王冠はその表情に困惑を強め、
「……っ! バルダムヨォン、まさかっ!?」
 意図に気が付いたか、声を荒げる。
 私は僅かに狼狽を顕にする王冠を見据えながら、油断無く、そのカードを自らの右手の中で焔に包み、灰へと変えた。――その礼装の効果は『秘匿』。そして礼装が破壊されたとき、その効果は消滅し、隠されていたモノが現出するのだ。それは単純ではあるが、効果的なトラップスペル。
「何も用意してないんじゃなかったのかっ!?」
 驚愕と動揺の声を上げる少年を置き去りにし、その限定礼装の効果が失われた後には、私の左手に重厚な銃器が握られていた。
「――真逆。王冠、貴方を迎えるというのに何のもてなしもないのでは礼に欠けるでしょう。最低限、これくらいの出し物は用意しておかないと」
「……黒い銃神」
 そう。今私の左手に握られているのは、ブラックバレル(黒い銃神)の異名をとる聖堂教会の秘奥。対するものに強制的に天寿という概念を与え、無理矢理に浄化してしまうという対魔・対死徒概念武装の究極の一。
 名を、聖葬砲典。
 かつて天の御使いすら撃ち貫いたと言われる、聖堂教会がもつ最高戦力のうち一つである。
「いや、実際苦労しましたよ。限定礼装を用いたとはいえ、これを隠していた術は俄仕込みでしてね。貴方にいつ気付かれるかと、それはもうヒヤヒヤしたものです。――ですが、見事に効果はあったようですね。ええ、大変結構」
「……蛇が。その狡猾さはやっぱり天性のものなんだろうね。だけど、たかだか人間が、概念武装の一つや二つを持ったくらいで僕に届くと思ってもらっては困るな。
 ――――なんなら。今此処で、何もかも押し潰してあげようか?」
 王冠はその銃を認めた瞬間こそ驚いていたものの、今はまた底冷えする視線を湛えたままこちらを睨みつけている。あの驚きは、私が何も用意していないとタカをくくっていた故のものだったのだろう。不確定要素が一つ、いきなり飛び出してきたということに驚いただけであって、その後の彼我戦力差を考えれば、アレにとってはそんなものの一つや二つあったところで大勢に影響は無い。ただ自分が予定より少しだけ傷を多く貰う確率が高まった程度にしか思っていないのだ。
 それは確かに正確だ。しかし、
「早まってもらっては困りますね、メレム。私は別に貴方と殺し合いをしたいわけじゃない。ただあまりにもこちらのカードが脆弱なのでね。少し補強をさせてもらいました。もちろん貴方も言った通り、私とてこの銃一つ増えただけで貴方を殺しきれるなどとは思っていませんよ」
「へえ、じゃあなんだいそれは? それでどうしようっていうのさ」
 依然一触即発の空気は続いている。
「この聖葬砲典は、いわばテーブルです。もしこれさえも此処に無かったなら、貴方の独壇場でしょう? 私には交渉の余地も無い。ですが、これさえこちらにあれば、貴方を殺すことはできなくても、――――向こう五百年。貴方を封印することはできます。もちろん、私は死にますがね。……ええ、不本意ながら、私も命を掛けさせて頂きます。此処を凌げなければ私にも後が無いのですよ。後が無ければ、私の目的になんて到底届きません。そうであれば、ここで貴方と殺し合ったほうが幾分ましだ」
 必至、という言葉。私にとってそれは、今日このときのために在ったのだろう。
 その言を聞いて、王冠の目がすっと細まった。それは何か考えているということであり、つまりは相打ち覚悟の私とその私が扱う聖葬砲典は、アレにとって完全に無視するわけにもいかない程度の障害にはなるということの証左である。
 そしてそのままゆっくりと一分が過ぎ、
「――なるほどね。判ったよ。今回は僕の負けだ。まさか君ともあろうものが自分の目的を放り出してまで、命をベットしてくるなんて思ってもいなかったから。たしかに、君がその命を顧みず自らの性能をオーバードライブさせ、しかも黒い銃神を完全に使いこなしたなら、僕でも五〜六百年ほど眠らないといけない。其の間ずっと姫君に会えないなんて、いっそ死んだほうがましだからね」
 王冠は静かに、その威圧を収めた。
 いささかスマートさには欠けるが、ここに私と王冠の利害は一致をみた。切り札というものは、こうやって使わなければ意味が無い。
 今回の場合、重要だったのは聖葬砲典ではなく、隠者のリバースでもなく、『姫君の話の最中に王冠が正常な判断を失うタイミングを作り出すこと』とそのタイミングを逃さず、自分の切り札、すなわち『私が私の目的を放り出して命を賭け、自己保存を省みない捨て身であることを王冠に信じさせる』というカードを躊躇い無く切るというものだった。これは最悪、私が命を賭けるということ自体は王冠に信じられなくてもいいのだ。ただ、その可能性が確かに存在し、その場合、王冠は酷いデメリットを被る、ということを王冠自身に意識させることができれば、それでいい。そうすれば、自ずと答えは出てしまう。
 だから、聖葬砲典は交渉の余地を作るためのテーブルに過ぎず、ここではそれ以上の意味はない。
「はぁ、まいったね。君はやっぱり賢いよ。少し賢すぎる。僕が姫君の話を前にして、僅かに付け入る隙を見せる、というところまで読んでいたんだろう。僕が今夜ここに来る前から。用意周到に銃神を隠して」
「いえ、そうでもありません。あのままただ雑談にだけ興じて何事もなく立ち去ってくれるのなら、それがベストでした。これは、謂わば保険ですよ」
「そうか。まあいいよ。今回は負け。……で、僕はどうすればいいんだい? 何も干渉しないってのがいいのかな?」
「ええ、それで構いません。私はそれ以上を貴方に望みませんし、望んだところで貴方は動いてくれないでしょう。いえ、動いてもらっては困るのです。何せ、面白おかしく失敗するのが道化師の仕事ですしね?」
「あはは、まあね。判ってるじゃないか、バルダムヨォン」
「貴方との付き合いも長いですからね。それに、私が姫君に吸血されるということ自体は、貴方にとってそう嫌悪すべきことではないはずですよ?」
「ああ、うん。まあ。言いたいことは判るよ。――姫君は、誰か人間を吸血することによって、真祖であるということとその在り方に気が付く、つまり彼女は一歩成長するっていいたいんでしょ? それは僕にとっても望むところなんだけどね。僕は色んな姫君を見ていたいし。今の、芽吹く前の固いつぼみのような在り方も嫌いじゃないんだけど、彼女にはもっと情熱的で退廃的な天獄のような生き方をしてほしいんだ。それを僕は傍らで眺めていたいのさ」
「だったら、別段私に敵意を向ける必要もなかったのではありませんか? その望みを進めることが出来るのですから」
「……まあ、君ならそう言うと思ったよ。肝心なところで君は人でなしだからね。判らないだろうなぁ。理性的には許せても、感情的には許せないことが世の中にはあることってことさ」
「……はあ? それは何か矛盾しませんか?」
「いや、人間だったら普通こういうもんなんだけど。君、もしかしたら僕よりヒトじゃないんじゃないかい?」
「失礼な。私もたしかに人でなしですがね、貴方ほど人でないモノではありませんよ。貴方は構成要素から既に逸脱しているでしょうに」
「そういう意味じゃないんだけど。……まあいいか」
 最後に少し意味不明な部分があったが、まあ、私が望む結果には辿り着いた。最終的な判断としては、これが最良だろう。
 目の前にはつい数分前まで命を鬩ぎあっていた死徒が一人。
 その目はもう既に私には向いておらず、天井を見上げながら遥か遠くを見定めているかのようだった。

 ――いったい。何年の孤独を味わえば、ああなるのだろうか。

 その横顔があまりに無防備だったからか。
 私は、最早届かない故郷を眺めるようなその赤い瞳に、思わず静寂と寂寞という名の牢獄を幻視した。

 ◇ ◇ ◇

「さて、それじゃあ用も済んだことだし。僕はこれで帰るけど」
「ええ、わかりました。たいしたもてなしも出来ず、すみませんでしたね」
「ああ、そうだよ。お茶どころか椅子も出してくれなかった」
「おや? そうでしたか?」
 帰路に着く相手を扉越しに見送りながら、さらりと出てきた言葉。その言葉に、
「ははは、こんなときまで社交辞令の形態反射かい? もっと人間性を養ってみたら良かったのにね、君も。死に損ないに成ってから嘆いても知らないよ?」
 王冠はそんな笑い声を残し、
「じゃあ、先輩として君に一つ予言をしよう。
 ミハイル・ロア・バルダムヨォン。――君は、君の目的に辿り着けないまま、辿り着けなかった理由も判らずに、殺されて消える。
 君を殺すものは、僕じゃない。ナルバレックでもない。姫君でも、その姉君でもない。まして宝石のご老体や君の盟友である混沌でもないだろう。
 東の最果て、日が昇る国の、ただの少年に。君はその全てを殺されて果てる。
 ケテルに居る者から、これから昇ってくる蛇に。――――心ばかりのお節介さ」
 その外見らしく、さよならと手を振りながら。
 呪いとも占いともつかぬ言葉を残して去っていった。



「――なんですか、それは? 貴方にしては笑えない冗談ですね」
 王冠と呼ばれる少年が去った後。私は扉を開け放したまま廊下の窓を眺めていた。
 見えるのは四角い窓に区切られた夜空。そうやって切り取られた空は独房のように寒々しい。もう明け方に近い薄闇の空には、煌く星々がその名残を見せている。
 濃い群青を徐々に紅に染めゆく空には、去り行く夜に取り残された白い月が一つ。
 その月は、これから先の白い姫君を暗示するかのように、じわりと朱く縁取られていた。





 <了>





あとがき:
 リハビリ作品。
 始めギスギス、中ギシギシ。終わる頃にやっと落ち着いた、というような会話。
 メレムとロアの雑談です。埋葬教室の同僚同士、ある日ある夜の出来事。アルクェイドにまつわる話。
 やっぱりロアはロアで、メレムはメレムでした、という話になっていればいいなぁ。


 岩蛍


 2006/03/16 (初稿)


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